美山育成苑・梅津事件、
   大阪高裁で勝利和解・原職復帰!


弁護士 岩佐英夫
弁護士 井関佳法


1 相次ぐ不当処分

 梅津さんは重度の知的障害者施設「美山育成苑」(理事長は自民党参議院議員)の指導員です。
 梅津さんは、苑から飛び出し行方不明になった苑生A君を連れ戻すとき、暴れてかみつこうとした時の抑制行為を「体罰」を加え鼻血を出させたとして、「自宅謹慎」の後、1998年8月、停職6ケ月の重い処分を受け、停職処分解除後も指導員の仕事から外されて草むしりなどの「環境整備業務」をさせられました。
 さらに、1999年5月、町が住民の声を聞くために主催した区長会で、梅津さんは地元住民を代表する立場から、苑の増設計画に関して、苑生が地元の集落にさまざまな迷惑をかけてきたことや水問題でも地元に負担をかけてきたことを指摘し、増設するならきちんと地元に相談してほしいこと、また当時、中央・地方を問わず福祉関係の汚職・不祥事があいついでいたことから町に対し指導を求めました。
 苑は、この発言が秘密を漏らし名誉を毀損したとして、3ケ月の減給処分の後、2000年1月以降、全く経験のない厨房の仕事に配転するという不当処分を連発しました。そして職員会議にも出席させない、慰安旅行にも参加させない等の差別、仕事上でも、わざとミスを誘おうとする陰湿ないじめが続きました。

2 事件の背景

 梅津さんは、もと自衛隊員でしたが老父母の世話をするためと、違った人生を歩みたいという想いから退職しました。1983年に美山育成苑に常勤職員として採用され、1990年には「主任」となり、将来を担う職員として嘱望されていました。ところが、梅津さんは正義感が強く、苑の経営者の恣意的な人事を批判したことから、新首脳部に睨まれて1996年に一指導員に降格されました。
 また、A君の事件の1週間くらい前に、苑はそれ以前の一連の不祥事(これらは梅津さんには関係がない)について京都府から監査を受け、職員への「研修」を行っていました。本件の背景にはこのような事情がありました。

3 裁判での粘り強いたたかい

 苑は当初懲戒解雇を狙いましたが、梅津さんは地元等の支援ではねかえしました。しかし、苑が次々と不当処分を行ってきたため、2000年7月、京都地裁に提訴し、全国福祉保育労働組合に加盟して闘ってきました。裁判ではA君への行為が決して「体罰」ではなく、やむを得ない「抑制行為」であったこと、A君が「強度行動障害」で指導困難な苑生であることを、京都市の同種施設の指導員(京都市職員労働組合員)にも証言してもらいました。また区長会での発言については、増設計画が秘密ではなく公知の事実であり、地元住民の要求を代表する公的発言であること、汚職問題はあくまで一般的な発言で苑を指すものでないことなどを主張・立証しました。
 2002年4月、京都地裁第6民事部は、梅津さんの主張を基本的に認める判決を言渡しました。但し、秘密漏洩・名誉毀損については、こちらの証拠が不十分として認められませんでした。
 苑は控訴し、新たに日本児童青年精神医学会会長等の肩書をもつK医師の意見書を提出するなど必死の巻き返しを図ってきました。
 梅津さんも附帯控訴し、苑の巻き返しに対して佛教大学社会学部健康福祉学科の植田助教授に、福祉施設での指導の理念、福祉職場の「専門性」、労働者の権利への配慮、施設と労働者との民主的な関係等を明らかにする意見書を作成していただき提出しました。当初はK医師を正面から批判してくれる専門家を探すのに大変な苦労がありました。
 裁判所からK医師への反論を早く出すようにとせかされて時間の余裕がないことから、この意見書は、植田助教授・弁護団・福祉保育労組が数回にわたる対談でさまざまな質問をして植田助教授に答えていただき多くの貴重な資料も提供していただいたものを整理するという形で作成されました。この整理のために2002年の年末から03年の正月にかけての10日間くらいは、除夜の鐘をききながらパソコンを打つという毎日でした。
 また粘り強い追求でA君の「苑生の記録」を提出させました。この資料に基いて、A君が他の苑生とトラブルを起したり苑の外へ無断で飛び出すことが日常的にあること、またちょっとした興奮で鼻血を頻繁に出す体質であったこと等を客観的なデータに基いて明らかにしました。こうして、いかにA君の指導が困難であったかをリアルに整理し、これを梅津さんの娘さんがパソコンに打ち込んでくれました。
 こうした努力の積み重ねで、高裁の裁判長は「梅津さんも大変だったんですねぇ」と法廷で発言し、和解勧告がなされました。
 4回にわたる和解交渉の結果、停職処分・配転の無効を前提に配転時点に遡っての地位確認、原職復帰、停職処分中の昇給延伸等の回復、解決金の支払等の条件で和解が2月23日成立しました。
 リストラ解雇が横行する現在の情勢のもとで、配転事案で原職復帰を実現したことは、貴重な勝利といえます。高裁の和解成立の期日に苑長が和解室に入室せず、梅津さんが原職復帰する直前に退職したことは、この勝利和解の性格を象徴しています。

4 勝利の要因

 勝利の要因としては、先ず梅津さん本人の人柄があります。梅津さんは苑生に信頼されていました。裁判の途中でも、同僚がなかなか勇気ある発言をしてくれないなかで、苑生が梅津さんを励まし復帰を望む手紙を何人も自発的に寄せてくれました。そのひとつを紹介すると、たどたどしい字で次のように書かれています。「はやく たんとうに もどってきてください まっています みんな まっています りょこうに いこう」これをそのまま証拠提出すると、今度はその苑生や保護者がいじめられるので、適切な機会に事実上裁判官に見てもらいました。梅津さんの復帰を誰よりも喜んでくれたのは苑生と保護者でした。「もとの楽しい苑にしてや」と保護者から声をかけられたそうです。
 また、美しい農村である美山町の地元住民の暖かい支援が梅津さんを支えてくれました。梅津さんは、おいしい「万願寺とうがらし」や「すだち」などを産直野菜として提供する農民でもありました。農民組合の仲間をはじめとする地元住民が中心になって3回にわたる激励集会を開いてくれました。
 提訴して福祉保育労働組合に加盟してからは、福保労が裁判傍聴は勿論、苑や理事者への申し入れ、署名活動、集会の準備など献身的に支えてくれました。
 こうした支援の輪が勝利を生み出したといえます。
 梅津さんは、4月23日の勝利報告集会で、支援に対する感謝とともに、停年までの数年間で職場に組合の跡継ぎを残したいと、こぼれるような笑顔で力強く語りました。弁護団もこうした事件に参加できて幸せだったと思います。

(2004年4月)
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