メンバーの素顔紹介 杉山潔志

お千代・半兵衛の夫婦愛・親子愛

▲ 来迎寺石柱 写真をもっと見る
お千代・半兵衛のお墓のある来迎寺

 木津川左岸に位置する京都府綴喜郡精華町は、木津川沿いの平野と西の丘陵地帯からなっている。町面積の約6分の1を自衛隊祝園弾薬庫が占めている。最近では、関西学研都市(宅建都市?)として、人口が急増している。
 JR祝園駅前から京都府道八幡木津線を南へ行った植田地区の小高い丘に行基が開基したと伝えられる浄土宗来迎寺(らいごうじ)というお寺がある。来迎寺には、近松門左衛門の名作「心中宵庚申(しんじゅうよいごうしん)」の主人公であるお千代・半兵衛の墓がある。

近松の名作「心中宵庚申」の概略

 「心中宵庚申」は、その時代の実話をテーマにした世話物で、近松が70歳のときに書かれた浄瑠璃本である。この心中事件は、大阪下寺町銀山寺にもあるお千代・半兵衛の墓石や過去帖によると享保7年(1722年)に起こった。「心中宵庚申」の概略は次のとおりである。
 遠州浜松の武家に生まれた半兵衛は、故あって大阪の町人に奉公、靫油掛町の八百屋伊右衛門の養子になったが、父の17回忌で故郷に帰った。そこで、城主の鷹狩の際の料理・接待や衆道をめぐる争いの仲裁に武士気質を発揮する。半兵衛は、浜松からの帰途、山城国上田村(植田村)にある妻お千世(お千代)の実家(農家)島田平右衛門宅に立ち寄った。平右衛門宅には、姑との折り合いが悪くなって帰されて失意に沈んだお千代がいた。そのとき、お千代は4月の身重であった。半兵衛は、平右衛門にお千代を離縁するなと訴えられ、事情を知って驚いた。半兵衛は、尽未来際までお千代と添い遂げると約束した。しかし、養母に姑去りの悪名をきせることもできないと思いながら、お千代を連れて大阪に帰り他にかくまった。お千代に事の次第を説明した半兵衛は、養母にはお千代を自ら離縁すると説明してお千代を呼び戻し、養母の前でお千代に離縁を言い渡した。家を出たお千代を追って、半兵衛も家を出る。時は4月5日の宵庚申、お千代・半兵衛は生玉神社の馬場先で心中をした。


▲お千代・半兵衛の墓所 写真をもっと見る
夫婦の愛と親子の愛

 半兵衛は、養父母に対する愛情と妻お千代に対する愛情の板挟みにあって、養父母の顔を立て、妻との愛も貫いて心中する道を選んだ。この悲劇の結末が当時の人々に感動をよび、自分の生活を省みさせたのであろう。
 お千代・半兵衛のように、妻と母の葛藤の板挟みにあう男は現代でも少なくない。法律相談を聞いていると、母の味方をして妻と対立する者がほとんどである。このような場合、妻が相談に来る。夫婦は、別居や離婚に至ることが多いようだ。しかし、時として、妻の立場を支持して、両親と対立する者もいる。夫の両親から、妻に同じ姓を名乗らせたくない、親族関係を解消したいなどと相談を受けたりする。現在の民法では、そのような方法はないと説明すると、残念そうな顔をされる。夫婦の愛と親子の愛の葛藤をどのように解決するのか、この問題も社会生活における永遠のテーマだ。


▲来迎寺境内の楠(幹) 写真をもっと見る

江戸時代の社会

 江戸時代というと、士農工商の身分の厳しい封建社会で農民は武士に搾取・収奪され厳しい生活に喘いでいたというイメージがある。ところが、最近の研究(田中圭一「百姓の江戸時代」(ちくま新書)など)によると、必ずしもそうではない。
 「心中宵庚申」を読んでみると、そのことが理解できる。たとえば、半兵衛は浜松の武家の出だ。父が幼少の頃になくなって、大阪の商家に奉公に出て、八百屋の養子になっている。実家に帰ったときには衆道をめぐる争いの仲裁をしている。また、お千代は農家に生まれたが、商家の養子にになった反米に嫁いでいる。これらことは、伝えられているほど身分社会が厳しいものではなかったことを物語っている。
 次に、島田家は、お千代の婚姻に相当の嫁入り道具を準備し、また、姑去りて戻ってきたお千代は、病気の父平右衛門に、伊勢物語、塵劫記、心中天の網島、徒然草、平家物語などの蔵書の中から平家物語を読み聞かせ、清盛を半兵衛に祇王をお千代になぞらえて嘆くのである。このくだりも、当時の農家には島田家のような財力や教養がある家が存在していることを示している。
 このように、江戸時代は、私たちがイメージしていたような逼塞的な封建社会ではないようだ。

さいごに

 精華町植田には、現在もお千代の生家であった島田家が存在しているという。お千代・半兵衛のお墓を見て、「心中宵庚申」の物語を思い起こすと、江戸時代の社会の中で夫婦愛と親子愛の葛藤に悩んだ夫婦のあり方に思いを寄せられる。お千代・半兵衛の生涯は、現代でも、形を変えて私たちに愛情のあり方や生き方を問い質しているようだ。 
(2007年4月更新)


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