メンバーの素顔紹介 杉山潔志

山宣ひとり孤塁を守る
   
▲山本宣治の墓碑

 今年(2009年)は、旧労働農民党(労農党)の衆議院議員山本宣治の生誕120年、暗殺80年の年にあたる。宣治は、1889年、クリスチャンで洋物雑貨店を営む亀松・多年(タネ)夫婦の長男として京都市内で生まれた。神戸中学校に進学したが、虚弱体質のため退学し、宇治市内の別荘(後の料理旅館「花やしき」)で花を栽培し、園芸家を志した。1906年、大隈重信邸に住み込み、園芸見習いとして働きながら、夜学に通学した。翌年、カナダのバンクーバーに渡り、5年間、園芸、皿洗い、漁夫などをして働きながら、人道主義者やキリスト教社会主義者と交流し、社会科学や進化論を学んだ。
   
▲花やしき浮舟園
▲宇治川・喜撰橋から見た花やしき浮舟園

 1911年に帰国した宣治は、24歳で同志社普通学校に編入学し、26歳のとき、「花やしき」の仕事を手伝っていた丸上千代と結婚。できちゃった婚のようである。その後、第三高等学校から東京帝国大学へと進学し、同志社大学予科講師に就職しながら、京都帝国大学大学院に進学し、同大学医学部・理学部の講師にも就き、動物学の研究、性教育や性科学の研究を行なった。1922年に来日したアメリカの産児調節運動家のマーガレット・サンガーに啓発され、サンガーの著書を翻訳、発行し、日本初の性科学者として、労働者・農民の中で産児制限運動に携わるようになり、全国各地で講演活動を行った。また、長野県上田地方で始まった自由大学の講師を引き受け、労働者・農民に生物学、性教育、産児制限論を講義したが、産児制限運動は、「産めよ、増やせよ」という政府の兵力増強政策に対立するものであった。宣治は、大阪労働学校の講師、京都労働学校の校長に就任して労働者教育活動にも携わり、京大や東大、早大などの社研での講師活動や活動費支援活動を行なうようになり、京都帝国大学を退職した。産児制限だけでは労働者や農民の生活を改善できないと感じるようになった宣治は、労働運動・農民運動との関係を深め、山宣と愛称されるようになった。1926年には、京都学連事件に関連して家宅捜索を受け、同志社大学の講師を辞めされられた。
 共産党が非合法化された中で、無産階級の統一政党の結成が模索され、山宣は、1926年に結成された労農党京滋支部教育部長に、翌1927年には労農党京都府連合会の委員長に選任された。山宣は、1928年に初の普通選挙で行なわれた衆議院選挙に京都府2区(京都市域以外の京都府が選挙区)から立候補し、予想を覆して京都府1区(京都市域が選挙区)から立候補した弁護士の水谷長三郎とともに当選し、労農党が2議席を確保した。無産政党の進出に衝撃を受けた政府は、同年3月15日に共産党に対する大弾圧(3.15事件)や労農党の解散を行い、第55回帝国議会に治安維持法の「改正」案を上程した。「改正」案は、第55回帝国議会では成立せず、天皇の緊急勅令で公布され、特高警察、思想検事が設けられた。このような、弾圧体制と治安警察の猛威の前に、水谷長三郎は、治安維持法反対を貫けなくなった。
   
▲山本宣治墓前祭

 1929年2月から始まった第56回帝国議会で、山宣は、3.15事件の弾圧と被疑者への拷問を鋭く追及した。同年3月4日には、大阪の天王寺公会堂で開催された第2回全国農民組合の大会での治安維持法改悪反対の演説草稿に「今や階級的立場を守る者はただ一人だ。山宣独り孤塁を守る!だが私は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」という墓碑の背面に記された有名な文章を残した(実際の演説では「実に今や階級的立場を守るものは唯一人だ。だが僕は淋しくない。山宣一人赤旗守る。併し、背後には多数の同志が・・・(弁士中止)(佐々木敏二著「山本宣治・下」(不二出版))。
 3月5日、第56回帝国議会で「改正」治安維持法の承認審議が行われたが、山宣の反対演説は、討論打切り動議に封じられた。その夜、東京市会議員選挙の立候補者(借家人同盟の中村高一)の応援演説を終えて東京・神田の旅館「光栄館」に戻って入浴後、面会を求めてきた七生義団の黒田保久二(くろだほくじ)に頸動脈等を切られて死亡した。この後、浜口首相襲撃事件、血盟団事件、5.15事件など首相や蔵相、財界人が襲撃されるテロルの嵐が吹き荒れた。治安維持法を用いた国民弾圧が徹底され、日本は戦争への道を突き進み、アジアの人々や日本国民に大きな犠牲を強いた。敗戦という形で崩壊した帝国主義日本は、日本国憲法のもとで、平和と民主主義の道を進むこととなった。
   
▲山本宣治墓前祭

 敗戦後、3月5日の山宣の命日には、毎年、墓標の前で山宣墓前祭が行われ、平和や民主主義、人権を守る決意が固められてきた。これに加えて、生誕120年、暗殺80年の本年は、記念講演や出版など多彩な取り組みが行われている。その中でも、テロリストの黒田保久二に焦点を当てて、テロリストやそれを操った人物を生み出した時代背景と生き様と描いた「テロルの時代」(本庄豊著・かもがわ出版)は興味深い。
 テロといえば、2001年9月11日に発生したアメリカ・ニューヨーク市の貿易センタービルへの航空機突入事件が有名であるが、最近の日本でも、1987年5月3日に発生した赤報隊を名乗る男による朝日新聞阪神支局襲撃事件や2006年8月15日に発生した元自民党幹事長加藤紘一衆議院議員宅放火事件などが起こっている。2009年2月にはNHK福岡放送センタービル玄関での爆発、札幌、長野、福岡の各放送局、東京・渋谷放送センターへの赤報隊と書かれた紙片と銃弾様金属が送られた事件があった。そのうち、渋谷放送センターに送られたものは日本陸軍が使用していた38式歩兵銃の弾であった。
 テロは、人に対する殺傷や施設に対する損壊行為として現れるが、社会不安の拡散や言論活動の萎縮などの心理的効果を目的としており、平和や人権、民主主義に立脚する現代社会において到底許されるものではない。しかし、自己責任の名のもとに社会矛盾が隠蔽され、格差社会が進行し、人間が人間として扱われない状況が続くと、新たなテロリスト、第2、第3の黒田保久二が生まれる土壌が形成されかねない。貧困のため大学進学を断念させられた少年による新幹線岡山駅ホームでの突き落とし殺人事件(2008年3月25日)や東京・秋葉原で遂行された若い派遣労働者の無差別殺人事件(2008年6月8日)、「仕事も金もなく人生に嫌気がさした。」として41歳の男が大阪市此花区のパチンコ店で起こした放火・殺人事件(2009年7月5日)などは、その予兆のように思われてならない。
 日本国憲法は「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と宣言している(前文)。恐怖と欠乏から免かれることは、平和や人権、民主主義と表裏の関係にある。軍国主義が台頭する中で、反戦と民主主義、人権の旗を掲げ続けた山宣の人生は、日本国憲法の輝きを再認識させる力を持っている。

(2009年7月更新)