メンバーの素顔紹介 杉山潔志

江戸幕府の外交戦略

 現在、NHK大河ドラマの影響もあって、大変な坂本龍馬ブームがおきています。明治維新が脚光を浴びている反面、維新前の江戸時代は、幕藩体制や身分制度、鎖国政策などに象徴されるように、維新後と比べて遅れた時代との認識が一般的のようです。しかし、江戸時代は、およそ260年間も平和が続いた社会であり、リサイクル社会としての再評価も行われています。農民や町人の地位についての見直しも進んでおり、江戸幕府の外交戦略も再評価されるべきです。
 
 日本で戦国時代が続いた16世紀は、大航海時代であり、スペインやポルトガルがアジアに進出し、日本に鉄砲やキリスト教が伝来し、南蛮貿易が開始されました。天下を統一した豊臣秀吉は、キリスト教を禁止しました。朝鮮に対しては、服属を要求し、拒否されると朝鮮に出兵しました(文禄の役、慶長の役)。当初、優勢に戦いを進めていた日本軍は、朝鮮人義兵の蜂起と朝貢関係にあった明の介入により撃退されました。他方、この戦争などで国力を衰退させた明は滅亡し、女真族による清が中国を統治するようになりました。 淀城跡石垣
▲淀城跡石垣
 
淀城の由来説明板
▲淀城の由来説明板
 後を継いだ徳川家康の外交戦略は、秀吉が行った戦争の戦後処理をして国交を回復し、ルソンや安南など東南アジア諸国との交易やオランダやイギリスとの貿易も企図されました。しかし、幕府は、オランダなどの新教国は貿易と布教の分離が可能と判断するとともに、スペインやポルトガルという旧教国にはキリスト教の布教を梃子とした侵略の危険性を感じて、最終的にオランダ以外との貿易を禁じ、東南アジアへの渡航も制限しました。1637年に起こった島原の乱は、このような外交戦略を決定づけ、「鎖国体制」が形づくられました。

 
 朝鮮との国交は、日本が朝鮮からの通信使を迎えるという形で復活しました。朝鮮通信使は、将軍の代変わりや慶事に際して派遣されましたが、日本から朝鮮への使節は、秀吉に侵略軍の進軍路を教えたとの「教訓」から、朝鮮側から拒否されました。通信使は、漢城から釜山まで陸路を進んだ後、釜山から京都までは、途中の港に停泊しながら海路を進み、大阪から淀川を遡上した通信使は、淀に上陸して、休憩または宿泊後に京都をめざしました。そして、京都から江戸へは陸路を進みました。

 現在、淀の地には朝鮮通信使の上陸地点であることを示す「唐人雁木」(とうじんがんぎ:雁木は、船着場の階段のことで、群れて飛ぶ雁の形に似ていることから名付けられたものです)の石碑が伏見区納所町にある納所交差点の北側と伏見区淀池上町にある與杼神社内(淀城跡公園入口付近)に建立されています。通信使の進路は、各藩や村落などの負担で道路や沿道の建物が整備され、馬や人員が動員されました。また、各地で通信使との文化交流が行われ、多くの庶民が見守る友交的な雰囲気の中で通信使が江戸へと進んで行ったということです。このような通信使は、日朝両国の平和友好の象徴として1636年から1811年まで9回にわたって派遣されました。
 
 ところが、明治維新以後、国内では征韓論が展開され、明治政府は、朝鮮を日本の勢力圏とするための日清戦争を勃発させ、日露戦争などを経て、1910年には韓国を併合し、植民地化しました。このような、明治政府の外交戦略は、帝国主義の時代であったとはいえ、戦争によって国際紛争を解決し、海外に利権を獲得するという好戦的、侵略的なものであり、江戸幕府の外交戦略と比べても問題があるというほかありません。アジアへの侵略とアジア・太平洋戦争は、アジアや日本の人々に過酷な戦争の惨禍をもたらしました。
納所交差点千本通北側にある唐人雁木の碑
▲納所交差点千本通北側にある唐人雁木の碑
納所交差点千本通北側にある唐人雁木の碑
▲納所交差点千本通北側にある唐人雁木の碑
淀城入口の與杼神社内にあり唐人雁木の碑
▲淀城入口の與杼神社内にあり唐人雁木の碑
與杼神社の鳥居
▲與杼神社の鳥居

 現在の日本の外交をみると、政府は沖縄県宜野湾市にある普天間基地の移転問題で迷走しています。鳩山民主党は、2009年総選挙で、普天間基地の沖縄県外への移転を公約したものの、移転先として検討された海上自衛隊大村航空基地がある長崎県大村市や航空自衛隊新田原基地がある宮崎県新冨町、鹿児島県徳之島などは、いずれも強い反対の意向を示し、沖縄では、自公党政権のもとで移転先とされた辺野古地区を抱える名護市の市長選挙で移設反対の稲嶺市政が実現し、沖縄県議会は全会一致で普天間基地の県外・国外移転を決議しました。4月25日には県内移設反対の9万人集会が開かれ、県外移転の世論が大きく盛り上がっています。鳩山首相は、二転三転した揚句、現行の日米安全保障条約(安保条約)を維持する立場で、移設先を元の辺野古沿岸部とし、杭打ち桟橋方式で新基地を建設し、徳之島へ一部の訓練機能を移転する案を提示していますが、基地反対の世論は大きく、普天間基地の移転先がないという状況です。最終的に、辺野古沿岸部で日米合意を取り付ける方向ですが、公約違反に対する批判は大きく、アメリカからも杭打ち桟橋方式には難色が示されています(2010.5.20現在)。
 
 もともと、安保条約に基づく在日米軍基地の存在は、国際紛争を解決する手段としての戦争や武力行使を放棄する日本国憲法と矛盾するものです(東京地方裁判所昭和34年3月30日判決(伊達判決))。特に、1990年代からは、アメリカの世界戦略の一環を担う基地として、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。」という安保条約第6条の制約を踏み越え、アフガニスタンやイラクへの派兵基地として運用されてきました。他方、普天間基地などに配置されたアメリカ第3海兵遠征軍は、アフガニスタン等に出撃し、残存部隊も、米軍再編計画によってグアムに移転する計画であり、在日の第5空軍も、その部隊が第13空軍に移転するなど、在日米軍基地の空洞化が進み、戦争抑止力としての米軍基地の機能は著しく低下しつつあり、安保=在日米軍基地抑止論の根拠が揺らいできています。
 
 普天間基地問題や核持ち込み密約問題などを契機に、米軍基地の縮小論や駐留なき安保条約論、安保条約廃棄論など、安保条約の見直しを迫る世論が勢いを増しているように見受けられます。基地反対の大きな世論は、戦争による国際紛争の解決や武力による戦争抑止ではなく、憲法の平和主義に立脚した東アジアの安全保障体制や非核地帯条約などをめざす外交戦略への転換を求めているようです。「唐人雁木」の碑は、武力を背景とせず、平和と友好を基礎とした外交戦略の大切さを呼びかけているように思われるのです。

(2010年6月更新)


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