メンバーの素顔紹介 杉山潔志

貨幣経済の始まり

【貨幣経済と変動相場制】
 
木津川市コミュニティバス・銭司バス停
▲木津川市コミュニティバス・銭司バス停
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2010年になって、円高ドル安の影響が深刻になっています。6月ころまでは1ドル90円〜95円であった為替レートは、10月には1ドル80円程度にまで進行しました。円高ドル安は、ドル建て決済の原材料や製品を安く輸入できるようになり、海外旅行も安価になりますが、輸出品はドル換算すると高くなるので不利になります。今回の円高は、1985年〜88年の水準に匹敵するもので、アメリカ経済の不振や金融緩和策などの原因が指摘されています。東京商工リサーチの調査(11月9日発表)によると、1月〜10月に倒産した企業約1万1千社のうち、円高が原因で倒産した企業は前年比の約3倍の58件で、負債総額は約50%増の約854億円に上っています。
 戦後長く、1ドル360円の為替レートは、1971年にドルと金との交換停止(ニクソンショック)で困難になり、1ドル308円と改定されたものの固定相場制を続けられず、1976年、為替レートを外国為替市場における外貨の需要と供給に任せる変動相場制に移行しました。1971年以前と比べると、円の価値はドルに対して4倍以上になったのです。
 もともと、貨幣価値は、それ自身が価値を有している金に裏付けられ、貨幣は金と交換できるものとされていました。しかし、このような金本位制は第一次世界大戦により維持できなくなり、政府や中央銀行が貨幣価値を管理する管理通貨制度に移行しました。国際取引では金本位が一般的でしたが、国際通貨としてのアメリカドルも金との交換を続けることができなくなったのです。さらに、21世紀には、ユーロのように、単一の主権国家の枠を超えた貨幣も出現しています。
【貨幣経済と法】
 
銭司北西の風景
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現代社会は、商品との交換を貨幣によって媒介する貨幣経済によって成り立っています。政府や中央銀行が貨幣の価値を維持できないと、インフレやデフレなどが生じて国民生活が混乱します。
 日本でも貨幣経済を前提とした法律がたくさんあります。貨幣経済を混乱させる行為は、通貨偽造罪や偽造通貨行使罪(刑法148条)、偽造通貨収得罪(刑法150条)、通貨偽造等準備罪(刑法153条)などによって処罰されます。民法には、金銭債権に関する規定があり(402条)、損害賠償では金銭賠償が原則とされています(417条、722条)。売買は、財産権の移転に対し代金を支払う契約です(民法555条)。代金は強制通用力のある貨幣に限らず、強制通用力のない外国貨幣などでの支払いを合意するすることもできます。なお、当事者の双方が金銭以外の財産権を移転する合意は、交換になります(民法586条)。
 江戸時代には、米の石高を中心とした幕府や諸藩の経済と金貨(小判)、銀貨(丁銀)、銅貨(銭貨)などの貨幣による商品取引(貨幣経済)が並立していました。刑法や民法の通貨や金銭に関する規定は、これらの法律が作られた明治時代には貨幣経済が広く普及していることを示しています。戦後に作られた利息制限法や貸金業法などの法律は、さらに進展した貨幣経済に対応する法律といえます。
【日本における貨幣の製造】
 
京都府立山城郷土資料館(銭司遺跡出土品を保管)
▲京都府立山城郷土資料館
(銭司遺跡出土品を保管)
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日本社会は、古墳時代までは自給自足の経済でした。日本書紀の巻第二十九も天武天皇十二年(683年)四月の条に「『今より以降、必ず銅銭(あかがねのぜに)を用ゐよ。銀銭(しろがねのぜに)を用ゐること莫(なか)れ』とのたまう」と記述されており、7世紀以前に貨幣が存在していたことが窺われます。無文銀銭や富本銭がこれらの貨幣と推定されますが、その実用性や普及性には疑問も提示されています。
 日本で最初の通貨は、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)と言われています。708年に武蔵国秩父郡から和銅(にきあかがね)が産出し、これを記念して元号が和銅に改元されました。崔鋳銭司(さいすぜんず、さいじゅせんし、さいちゅうせんし)という官職がおかれ、和同銀銭を発行した後、近江国に和同銅銭を鋳造させました。その後、和同開珎を鋳造する鋳銭司は、河内、長門、周防などの各地に置かれました。
 
和同開珎・鋳銭遺跡説明板
▲和同開珎・鋳銭遺跡説明板 写真をもっと見る
和同開珎の鋳造は、銅地金の価値よりはるかに高い公定価格を持たせた硬貨を流通させて利ざやを得、それを平城京の造営資金にする意図があったと指摘されています(京都府立山城郷土資料館の冊子)。和銅2年には、銀銭私鋳に対する罰則の詔が出され、銀銭が廃止されました。朝廷は、一定量の銭を蓄えた者に位階を与えるという蓄銭叙位令の公布や私鋳銭に対する罰則の制定(和銅4年)鋳造不良の少ない官銭の受領拒否を禁ずる択銭禁止令の公布(和銅7年)など貨幣の流通、普及に苦心したようです。
【和同開珎を鋳銭した岡田郷】
 
錢錢之遺蹟・石碑(拡大写真)
▲錢錢之遺蹟・石碑(拡大写真)
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山城国にも鋳銭司がおかれました。平安時代に書かれた日本三代実録の貞観7年(865年)に「山城国相楽郡岡田郷旧鋳銭司山にて銅を採る」との岡田鋳銭司に関する記述があり、設置の時期については、続日本紀の天平7年(735年)4月の「更に鋳銭司を置く」を当てるとの見解があります。京都府と加茂町(現、木津川市)の調査で、加茂町銭司(ぜす)から、鞴(ふいご)の羽口や坩堝(るつぼ)、銅滓、和同開珎の銅銭、銀銭が出土しました。銭司という地名も銭司に由来していると考えられ、その地には、「鋳銭之遺跡」と記された石碑が建立されています。銭司には、銅銭鋳造を偲ばせる金鋳山、金谷などの小字があり、鋳銭司が存在していたことを物語っています。出土した坩堝などは、木津川市山城町上狛千両岩にある山城郷土資料館に保管されています。
 貨幣の鋳造を始めた古代の人々は、今日の貨幣経済を想像することはできなかったでしょう。銭司遺跡に立って見ると、怪物のように発展し、時として個人や国家の制御をも超えて自己運動する貨幣経済が、古代国家の国運をかけた懸命な取り組みから始まったことに興味をひかれます。
(2010年12月更新)


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