メンバーの素顔紹介 杉山潔志

長明の書き記した大地震
〔東日本大震災の発生と被害〕
 2011年3月11日14時46分、宮城県沖でマグニチュード9.0の大地震が発生しました。この地震のエネルギーは、記録が残る1923年以降国内最大で、20世紀以降世界で観測された4番目の大きさです。宮城県栗原市で震度7を始め、東北・関東地方で激しい揺れが観測され、東北地方の太平洋岸には10mを超える津波が押し寄せ、岩手県・宮城県・福島県沿岸の市街地が壊滅しました。現在判明している被害者は、3月27日現在、死亡1万0804人、安否不明1万9036人、避難24万3177人に達し、戦後最大の災害となっています。

 この地震と津波によって福島県沿岸部にあった東京電力福島第1原子力発電所、福島第2原子力発電所は、冷却装置の損傷によって炉心などが高温になり、戦後初めて原子力災害緊急事態が宣言されました。第1原発1〜3号機は、炉心溶融が発生して放射性物質が漏れ、半径20km以内の10市町村の住民に避難指示、30km以内の住民に屋内退避要請が出されました。また、放射性物質の検出により、福島・茨城・栃木・群馬県産では一部の野菜や原乳の出荷停止指示、福島県の農家に対し作付延期要請が出されました。この事故は、アメリカ・スリーマイル島事故を上回る国際評価尺度レベル6に相当する大事故と評価されています。そして、電力不足を生じた東京電力管内の地域では、戦後初めての計画停電が実施され国民生活や経済に大きな打撃を与えています。
 
〔災害に関する法制度〕
 災害対策基本法は、災害に対する国や地方自治体の責務、防災に関する組織、防災計画、災害予防、災害応急対策、災害復旧、財政金融措置、災害緊急事態などの基本的事項を定めた法律で、これを受けて激甚災害法などの法律が定められています。政府は、東日本大震災を激甚災害に指定し、自治体に対する特別の財政援助や被災者に対する特別の財政援助・財政措置を行なうことを明らかにしています。

 他方、原子力基本法は、「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行なうものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」(第2条)との基本方針のもとに、原子力委員会・原子力安全委員会の設置、原子力開発機関、核燃料物質や原子炉の管理、放射線障害の防止、補償などの基本事項を定め、これを受けて、核原料・核燃料・原子炉の規制法や原子力災害特別措置法などの法律が作られています。政府への原発事故報告や原子力緊急事態宣言、原子力災害対策本部の設置、避難勧告や指示などの緊急事態応急対策とその実施は、原子力災害特別措置法に基づいて行なわれています。原子力事業者は、発生した損害に対し、無過失責任を負うが、損害が異常に巨大な天災地変や社会的動乱によって生じたときは、この限りではないとされています(原子力損害賠償法第3条)。
 
〔想定外といえるか?東日本大震災〕
 今回の大震災は想定外であったとの論調もなされています。はたしてそうでしょうか? 869年に東北地方で貞観津波が発生し千人以上の死者を出したという古文書があるそうです。

日野畑出町から見た日野山
▲日野畑出町から見た日野山
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 関西では、1185年に大地震(元暦大地震)が発生しました。「方丈記」は、「おびただしく大地震(おほなゐ)振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。・・・」とこの地震を描いています(市古貞次校注「方丈記」岩波文庫)。「平家物語」では、7月9日午の刻に地震が始まり、皇居や神社、仏閣、民家が倒壊し、その音は雷のようで、立ち上がる塵で空が暗くなり、近国・遠国でも大地が崩れ、水が涌き出で、山が崩れて河を埋め、海が漂って浜を浸し、汀を漕ぐ船は波に揺られ、陸を行く馬は足場を定めかね、洪水がみなぎり来て丘に登っても助からなかったなどと書かれています(梶原正昭・山下宏明校注「平家物語」巻第十二代地震・岩波文庫)。

日野から方丈石に至る山道
▲日野から方丈石に至る山道
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 1990年には、貞観津波が仙台平野の海岸から3km地点で約3mに達していたこと明らかにされました。また、2006年3月には、日本共産党の吉井議員が衆議院予算委員会で、津波の押し波で原発の機械室の機能が損なわれ、引き波で冷却水の取水ができなくなるなどして冷却機能の喪失・水素爆発の危険性を指摘していました。これらの記述や研究、指摘に照らし、今回の地震が想定外であったはいえません。

方丈石の場所
▲方丈石の場所
〔鴨長明が結んだ方丈の庵〕
方丈の庵跡の石碑
▲方丈の庵跡の石碑
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 「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」という名文で始まる「方丈記」は、1208年ころに、日野山に方丈の庵を結んだ鴨長明(かものながあきら)によって書かれました。方丈があったとされる場所は、日野山への山道を少し登った静かな山中にあり、巨大な方丈石の上に幅1丈(約3m)の庵が作れるような広さがあります。下の谷に小さな沢が流れていますが、長明はなぜこの場所に住もうと思ったのでしょうか。この場所で、後世に伝わる作品が作られたと思うと、さまざまな思いが頭をよぎります。
 
〔がんばれ東北!〕
供水峠に至る山道沿いの石仏(西部分)
▲供水峠に至る山道沿いの石仏(西部分)
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 「方丈記」には、養和元年(1181年)ころに、2年にわたって旱魃、大風、洪水が発生して穀物が実らず飢饉が深刻化し、都の左京の地域だけで4万2300人余が死亡したとも書かれており、平安末期の自然災害や源平の争いによる戦火の被害が末法思想を生み出したのでしょう。

 これに対し、今回の大震災では、被災者は悲しみと疲弊感を乗り越えて、地域の復興への決意をみなぎらせているようです。また、国民をあげて義援金や物資の援助がなされ、災害ボランティアの志望者も増えています。阪神大震災のときに、被害や被災者の調査をし、法律相談のボランティアをしたときのことを思い出しました。政府も総力を上げて東北の復興に取り組んでほしいものです。がんばれ東北!
(2011年4月更新)


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