皇位の承継・古代と現代
〔皇位承継者の問題〕
田辺市飯岡から見た筒城宮址方面
▲田辺市飯岡から見た筒城宮址方面
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 悠仁親王が2013年4月、お茶の水女子大学付属小学校に入学しました。皇族が学習院初等科以外の小学校に入学するのは戦後初めてです。
 皇室では、1965年に秋篠宮文仁親王が誕生してから悠仁親王が誕生する2006年9月6日まで男子が誕生しませんでした。そのため、2000年ころから女性天皇や女系天皇、皇位承継順位などが問題となり、2004年に小泉純一郎首相のもとで「皇室典範に関する有識者会議」(私的な諮問機関)が設けられました。有識者会議は、2005年11月、皇位の安定的承継を維持するため女性天皇、女系天皇への途を開くことが不可欠であり、広範な国民の賛同を得られるとの認識で一致したとの報告書を作成しました。
 
〔野田内閣のもとで行われた女性宮家の検討〕
 野田佳彦首相のもとで女性宮家の創設が検討されました。現在の宮家には、秋篠宮(天皇の二男)、常陸宮(天皇の弟)、三笠宮(天皇の叔父)、桂宮(天皇の従兄弟)、高円宮(天皇の従兄弟)がありますが、30歳以下の独身の皇族は、悠仁親王以外すべて女性であり、将来、皇族が減ることが予想されます。女性宮家の創設は、悠仁親王ら少数の皇族に「公的な行為」の負担が集中することを回避する目的で検討されたもので、女性・女系天皇の問題と切り離されて検討されました。
 女性宮家の創設には反対意見も強く、賛否両論を併記する論点整理がなされましたが、2012年12月に発足した第2次安倍政権は、女性宮家案の見直しを開始しました。
 
〔憲法と皇室典範〕
継体天皇皇居故趾石碑
▲継体天皇皇居故趾石碑
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 大日本帝国憲法は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)、「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所二依リ皇男子孫之ヲ承継ス」(第2条)と定め、天皇の地位は憲法によって男性に世襲されるものとされていました。
 これに対し、日本国憲法は「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを承継する。」(第2条)と、国会が皇室典範を定め、皇位の承継を男性に限らないと定めました。しかし、現皇室典範も「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを承継する。」(第1条)と定め、また、女性皇族は結婚すると皇族の身分を離れるとされている(皇室典範第11条2項)ので、女性・女系天皇の問題や女性宮家の問題が皇室典範の改正問題として議論、検討がなされたのです。
 
〔古代にもあった皇位承継問題〕
 戦前は、古事記や日本書紀を根拠に、神武天皇から王朝が交替することなく血統にもとづいて皇位が承継され、天皇は万世一系とされました。戦後、天皇に関する自由な研究が認められるようになり、缺史八代の天皇(綏靖天皇〜開化天皇)非実在説や三王朝交替説など万世一系を否定する考え方が出されました。三王朝交替説は、大和三輪地方に本拠をおいた崇神王朝、河内を本拠とする応神王朝、現在の天皇家につながる継体王朝が交替したという考え方です。
 記・紀によれば、武烈天皇に後嗣がなかったため、大連・大伴金村や大連・物部麁鹿火、大臣・巨勢男人らの要請で、応神天皇5世の孫である継体天皇が、近江(または越前)から迎えられたとされています。しかし、日本書紀の系図一巻が失われたため正確な応神天皇から継体天皇に至る系図が不明確です。
 継体天皇は、507年、58歳にして河内の樟葉宮で即位し、武烈天皇の姉である手白香皇女を皇后としたものの、大和に入らず(入れず)、山城の筒城宮、弟国宮を転々として、526年に大和・伊波礼に玉穂宮を定めました。このような事情は、継体天皇に反対する勢力の存在を示唆するといわれています。
 
筒城宮址顕揚碑がある同志社大学京田辺キャンパス
▲筒城宮址顕揚碑がある同志社大学京田辺キャンパス
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〔山城の筒城宮〕
 継体天皇は、511年、筒城宮に遷宮しました。筒城宮の正確な所在地はわかっていませんが、京田辺市多々羅付近と考えられています。多々羅地区には都谷という地名があり、筒城宮が置かれた地と推定され、筒城宮跡顕揚会によって「筒城宮址」碑が建立されました。現在、この地は、同志社大学京田辺キャンパスとなり、碑はキャンパス内の正門に近い丘に移されています。
 古代においても、現代においても血統にもとづいて皇位を承継し続けることには様々な困難が伴うようです。大正天皇以降側室が置かれなくなったもとで、皇位を男系男子に限定することは、皇位承継の困難をさらに大きくしています。筒城宮址に立つと、古代と現代の皇位承継問題に思いがはせられます。
2013年5月