コラム 杉山 潔志 
安積親王の無念
〔和束で生活した安積親王〕
安積親王陵墓・宮内庁表示板
▲安積親王陵墓・宮内庁表示板
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 京都府相楽郡和束町を流れる和束川に架けられた白栖橋の北方に安積親王(あさかのみこ)の陵墓があります。和束町は、茶源郷とも呼ばれ、宇治茶の約4割を生産しており、街の周囲には茶畑が発達しています。安積親王の陵墓は茶畑に囲まれた小高い丘にあります。
 安積親王は、728年、聖武天皇と県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)との間に第2皇子として生まれました。同母姉に井上内親王(いのうえのひめみこ)、同母妹に不破内親王(ふわのひめみこ)がいます。聖武天皇は、後に皇后となった安宿媛(あすかひめ)との間に、718年、阿倍内親王(あべのひめみこ)、727年、第1皇子基親王(もといのみこ)をもうけました。安宿媛は、740年ころから光明子(こうみょうし)と称した藤原不比等の3女で、藤原家という大きな後ろ盾を持っていました。
 ところが、生まれてすぐに立太子した基親王が728年に薨去したため、安積親王が聖武天皇の唯一の皇子となり、将来の皇太子の最有力候補と目されました。ところが、安宿媛が皇后となり、738年には、安宿媛を母とする阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が異例の女性皇太子として立太子しました。このような立太子のありかたは、従来の慣例・慣行に反するものですが、藤原氏の血をひかない天皇の誕生を阻止するために行なわれたと考えられ、当時の藤原氏権勢の大きさを示しています。
 
〔安積親王の薨去〕
白栖橋から見た安積親王陵墓
▲白栖橋から見た安積親王陵墓
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 安積親王は、大伴家持らと親交を結んでいたようで、743年の秋から冬にかけて恭仁京にあった藤原八束の邸宅で宴会を開きましたが、そのときに大伴家持が詠んだ歌が万葉集に載せられています。翌744年1月には、親王の邸があったと見られる活道(いくぢ)の岡(和束町白栖)で家持や市原王(いちはらのおおきみ)(天智天皇5世の孫)らが集まって宴を開いています。
 聖武天皇は、744年閏1月11日、安積親王を伴って難波に行幸しましたが、安積親王は、途中の桜井頓宮で脚気が発症して恭仁京に引き返しました。そして、その2日後に17歳でその生涯を閉じました。安積親王の死は、恭仁京の留守を守っていた藤原仲麻呂による毒殺説も唱えられており、藤原氏が安積親王の死に関与した可能性が指摘されています。陵墓を見ていると、安積親王の無念の声が聞こえてくるようです。
 
〔安積親王の冥福を祈って創建された正法寺〕
正法寺仏殿
▲正法寺仏殿
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 安積親王の陵墓の南東方向の和束町南下河原の地に正法寺という臨済宗永源寺派の古刹があります。正法寺は、天平年間(729年〜749年)に、行基が安積親王の冥福を祈って創建されたと伝えられています。当初は、背後の仏法寺山にあり、幡寺仏法寺と号し、多数の寺領を有する大寺院でしたが、中世に兵火によって荒廃し、江戸時代の天保元年(1644年)に仏法寺城主田村氏によって堂宇が山麓の現在地に移されて再興され、如雪文巌(にょせつぶんがん・にょせつもんがん)上人を招じて中興開山し、寺名も正法寺と改められたと伝えられています。現在、正法寺は和束町の紅葉の名所として知られています。
 
〔政権をめぐる争いの今昔〕
 古代の政権争いは、権力者と権力を狙う者との間の争乱や襲撃、権力を脅かす存在に対する襲撃や陰謀、暗殺などの形がとられました。たとえば、672年には、天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が反旗を翻し争った古代最大の内乱が起こりました。また、奈良時代の初期に皇親勢力の巨頭であった天武天皇の孫・長屋王(ながやおう・ながやのおおきみ)は、729年に、藤原氏の陰謀により自殺に追い込まれました。このような時代が、安積親王暗殺説の背景となっているようです。
 現在の日本は、日本国憲法のもとで国家権力が三分され、主権者たる国民が国権の最高機関である国会の議員を選挙で選び、国民の代表者である国会議員を通じて主権を行使する仕組みをとっています。その意味では、暴力と陰謀、暗殺で政権の確立、維持が図られた古代とは政治の仕組みが根本から異なっています。
正法寺境内の干支像
▲正法寺境内の干支像
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 しかし、現在の選挙制度は、多数の死票が生まれる小選挙区制であり、その上、選挙区によって1票の価値が大きく異なり、最高裁判所も衆議院選挙や参議院選挙について無効判決を言い渡してきました。また、政党に国費を支給する政党助成金の制度は、政党と国民を切り離しを助長し、政党が国民から政治資金を集めなくても運営できる仕組みです。そして、2013年12月には特定秘密保護法が制定され、国家の秘密を護る制度が強化されました。政治に対する無関心層や無党派層の増大は、このような制度もその一因になっていると思われます。このような民主主義を形骸化する制度や仕組みには疑問の声を持たざるを得ません。
 
2014年12月