コラム 杉山 潔志 
恋の歌人 和泉式部
〔さまざまな夫婦の関係〕
 夫婦関係の事件にかかわっていると、その多様さに驚かされます。本妻と二号さんと同じ家で暮らしている初老の男性や浪費癖の妻と再婚、最再婚と3度結婚した男性がいました。永遠の愛と誓っても婚姻が破綻することがあります。そんなとき、相手の意思に反しても離婚するには、民法770条1項に定める離婚事由が必要です。離婚原因もさまざまですが、最近は、マザコンの夫、妻とスマートフォンで知り合った男との浮気、掃除・片付けをしない妻への不満などが増えているようです。
 
〔浮気もさまざま〕
 浮気に関する法律相談もさまざまです。相手方の対応に驚かされることもあります。妻の代理人として夫の不倫相手に慰謝料請求をしたときのことです。相手の女性から「今の法律では違法と評価されるのでしょう。慰謝料は支払います。しかし、法律より愛情のほうが尊いのです。」と断言されました。このような恋愛に至上の価値があると考える人には、法律は無力というほかないのでしょうか。
和泉式部の墓がある木津川市殿城の寺
▲和泉式部の墓がある木津川市殿城の寺
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〔恋に生きた歌人・和泉式部〕
 和泉式部は、恋に生きた女性歌人として有名です。
「あらざらむこの世のほかの思ひ出に
      今ひとたびの逢ふこともがな」
 死の床にあって恋しい男にもう一度逢いたいとの激しい女性の情念を歌ったものです。この歌は、「後拾遺集」にあり、百人一首にも選ばれています。式部は、この歌以外にも恋の思いを多くの歌にしています。
 
〔和泉式部の人生と恋愛〕
 和泉式部は、越前守・大江雅致(おおえのまさむね)と越中守・平保衡(たいらのやすひら)の娘との間に生まれました。和泉守・橘道貞(たちばなのみちさだ)と恋愛関係に陥り、妻となりました。両名の間には、小式部内侍(こしきぶのないし)が生まれています。夫の任国と父の官命(式部丞か)から和泉式部の名を得たと解されています。式部は、夫に従って和泉国に赴いたこともあったでしょうが、多くは京にいる父のもとで暮らし、道貞と疎遠になったと思われます。平安時代の離婚制度には、大宝令の七三不許という棄妻規定があります。
 夫の妻に対する棄妻事由は、(1)子がないこと、(2)淫乱、(3)父母に仕えないこと、(4)おしゃべりなど7事由です。これに対し、妻側の離婚を拒否する抗弁3事由もありました。式部が道貞と正式に離婚したかは判然としません。
 その後、式部は冷泉天皇の第三皇子・為尊(ためたか)親王と恋に落ちましたが、親王は26歳で薨じました。父からの勘当もあって失意の中にあった式部の前に、正妃のいる為尊親王の弟・敦道(あつみち)親王が現れ、式部は敦道親王の恋をうけ入れました。親王が式部を南宮に入れたため、正妃は南宮を出ました。式部は親王の寵愛を一身に受けました。式部の作といわれる「和泉式部日記」には、親王との心情と取り交わした歌が記されています。しかし、敦道親王も27歳の若さで薨去し、式部は多くの追慕傷心の歌を詠みました。
木津川市殿城の寺にある和泉式部の墓
▲木津川市殿城の寺にある和泉式部の墓
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〔その後の和泉式部〕
 式部は、1年の喪に服した後、中宮彰子の女房として出仕しました。その縁で、藤原道長の信任の厚かった藤原保昌(ふじわらのやすまさ)に再嫁しました。祇園祭の保昌山は、保昌が式部のために紫宸殿の紅梅を手折ってくる様子を表したものです。式部は、保昌とともに任国である丹後に赴いたようですが、その後の消息は判然としません。式部の生涯は「岩波文庫・和泉式部日記(清水文雄校注)」の解説は簡易に入手でき参考になります。
 和泉式部のゆかりの地は全国にあり、京都にも「和泉式部縁起絵巻」に伝わる誠心院(中京区)や、式部ゆかりの「軒端の梅」の後継という白梅がある東北院(左京区)などがあります。式部の墓も各地にあり、京都府木津川市木津殿城の名称不詳・無住のお堂の裏手にも和泉式部のものと伝わる五輪塔の墓があります。設置された木津川市教育委員会の説明板には、式部は木津に生まれ、宮仕えの後、木津に戻って余生を過ごしたとあります。
 恋多き式部は、どのように晩年を過ごし、死を迎えたとき誰にもう一度逢いたいと願ったのでしょうか・・・
 
2017年8月