コラム 杉山 潔志 
悲劇の媛・竹野媛
〔美知能宇斯王の娘〕
 古事記によれば、第9代開化天皇の孫である丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)には、丹波河上摩須郎女(たにはのかわかみのますのいらつめ)との間に、比婆須比賣命(ひばすひめのみこと)、弟比賣命(おとひめのみこと)、歌凝比賣命(うたごりひめのみこと)、圓野比賣命(まとのひめのみこと)の4人の娘をもうけました。娘の名前や人数は、古事記や日本書紀の記述箇所によって様々で、古事記の圓野比賣命は、日本書紀では、竹野媛(たかのひめ)に当たると考えられています。
 
羽束師神社・鳥居と社号標石柱
▲羽束師神社・鳥居と社号標石柱
写真をもっと見る 
 
〔自殺を試みた竹野媛〕
 さらに古事記によると、4人の娘は垂仁天皇に召し上げられ、比婆須比賣命と弟比賣命は留め置かれましたが、歌凝比賣命と圓野比賣命(竹野媛)は醜いという理由で故郷の丹波に返されました。竹野媛はこれを恥じ、帰途の山代国相楽(さがらか)に至った時、樹の枝で首吊り自殺を試み、未遂に終わりました。そこで、その地を懸木(さがりき)と言い、相楽と言うようになりました。そして、弟国(おとくに)に至った時、深い淵に堕ちて亡くなったので、その地を堕国(おちくに)-今では弟国-と言うようになったとのことです。日本書紀では、葛野で自ら輿より堕ちて亡くなったと記されています。
 
〔羽束師の由来〕
 桂川が南東から南西方向に流れを変える辺りから淀までの桂川右岸の地は羽束師と呼ばれています。この地域は、大宝令の施行(701年)で乙訓郡となった羽束郷に属する水上交通や農耕が盛んな地域で、良質の粘土が採取され、土器や瓦の製造も行われていました。羽束師は、古代日本で粘土を捏ねて土器を製造する技術集団の名称で、これが地名となったようです。桂川右岸は、旧小畑川が合流する低湿地帯で、河川がよく氾濫する地域でしたが、江戸時代の後期に羽束師神社の神官らの努力によって羽束師川が開削され、水害から免れるようになったそうです。明治になって鴨川村、志水村、菱川村、古川村が合併して乙訓郡羽束師村が誕生し、昭和25年(1950年)に京都市に編入されました。
 

羽束師神社・本殿
▲羽束師神社・本殿
写真をもっと見る 
 
〔竹野媛の霊を祀ったのではないかとされる羽束師の森〕
 羽束師神社は西羽束師川の東側、京都市伏見区羽束師志水町に鎮座しています。正式には羽束師坐高御産日(はつかしにいますたかみむすひ)神社といい、天地開闢の時に高天原に現れて万物を創造したという高御産巣日(たかみむすひ)神、神産巣日(かみむすひ)神を祀り、五穀豊穣信仰の対象とされてきました。境内には、羽束師の森と呼ばれる森に囲まれた拝殿や本殿、摂社があり、大宰府に左遷された際に菅原道真が参詣したことに因んで北向見返天満宮が建立されました。境内には、道真の詠んだ歌が紹介されています。

   捨てられて 思ふおもひのしげるをや
   身をはづかしの杜といふらん

 羽束師の森は縮小されましたが、境内全域が京都市指定登録文化財の史跡に指定されています。羽束師の森は、深い淵で亡くなった竹野媛の霊を祀った森ではないかともいわれています。

 
〔容姿と婚姻〕
 召し上げられながら容姿を理由に故郷に帰された竹野媛のショックは想像に難くありません。最高権力者である天皇には逆うことができず、自殺という悲劇が生じたのでしょう。  日本国憲法第24条1項は、婚姻が両性の合意のみに基づいて成立すると定めています。婚姻に際して容姿を重視する人もいるのではないかと思われます。婚約が成立すると容姿を理由とする婚約の破棄は不法行為に該当し、損害賠償の責任が生じます(徳島地方裁判所昭和57年6月21日判決等参照)。「恋は盲目」という言葉がありますが、婚約や婚姻には、相手に対する責任も生じるのです。
 
〔現代社会と自殺〕
 竹野媛の自殺未遂説話は、記録に残る最古の自殺と思われます。現代社会は、社会格差の拡大、競争主義的・成果主義的な労働管理、福祉政策の貧困、いじめ等によるストレス社会となっており、これらを原因とする自殺が発生しています。日本の年間自殺者数は、1998年以降3万人以上となっていましたが、2012年に3万人を切ってから減少を続け、2019年は1万9959人でした(警察庁発表速報値)。しかし、それでも人口当たりの自殺率は、先進国の中で、最も高いレベルにランキングされています。  すべての国民が個人として尊重され、社会的な要因で自殺することがない世の中としていきたいものです。
 
2020年4月