コラム 杉山 潔志 
庄屋文治郎
〔親子関係存在の確認〕
 民法第779条は、“婚姻関係にない男女の間に生まれた子は父または母が認知することができる”と規定していますが、母子関係は認知を待たず分娩の事実によって当然発生するというのが最高裁判所の考え方です。
 日本では代理出産は事実上認められていませんが、最高裁判所は、“代理出産の場合、卵子の提供者ではなく出産した女性が母になる”と判示しています。民法には懐胎・出産していない女性を母とする規定がなく、実親子関係は公益及び子の福祉にかかわるので一義的に明確な基準によって決められるべきであるというのが理由です。このような場合、代理出産依頼女性と出生子が特別養子縁組する考え方が提示されています。
 
長谷川河口付近の木津川堤に生える六ケ池の榎
▲長谷川河口付近の木津川堤に生える六ケ池の榎
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〔ソロモン王と大岡越前守の裁き〕
 1人の子について複数の女性が母親と主張した場合、現代であれば血液鑑定やDNA鑑定によって母子関係が判断されると思われます。このような方法がなかった時代には、どのように裁定していたのでしょうか。
 古代イスラエルのソロモン王は、子を争う2人の女の前で、刀で子を切って半分ずつ与えると言いました。最初の女は「生きている子を彼女に与えてください」と述べ、もう一人の女は「どちらのものにもせずに分けてください」と述べたので、王は最初の女を子の母と裁いたとのことです(旧約聖書・列王紀上第3章)。
 このような説話は日本にもあります。大岡越前守は、母と主張する2人に子の手を1本ずつ持って引っ張り合いをさせ、子の「痛い!」との叫び声に手を離した女を母親と裁いたと伝えられています。この話しは創作のようですが、江戸南町奉行・大岡越前守の優れた実績がこのような創作を生んだと思われます。
 

〔庄屋文治郎の裁き〕
 これらに類する説話は城陽市にもあります。産みの母が育ての母に「子を返せ」と言って争いになり、庄屋文治郎が大岡裁きと同じ方法で、子の「痛い!」との泣き声で手を離した育ての母を親として決着を付けたそうです(民話・昔話「庄屋文治郎さんの大岡裁き」(城陽市ホームページ))。産みの母を親権者とする現代の日本では、反対の結果になったでしょう。
 江戸時代の民事紛争は、評定所、藩、奉行、代官が担当し、庄屋が裁きを行うことはなかったと思われますが、江戸時代には庶民に裁判を受ける権利(憲法第32条)が保障されていなかったため、申立が受理されず、文治郎が仲裁したのかもしれません。
 

六ケ池の榎の説明版
▲六ケ池の榎の説明版
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〔文治郎が主導した富野村を守る取り組み〕
 文治郎には、別の説話も伝えられています。
 城陽市を流れる長谷川の上流には、当時、幕府領があった奈島村、下流に淀藩領の富野村があり、川の湾曲部に増水時の雨水が集まって六ケ池などの池ができていました。奈島村が田に引いた水を六ケ池に流入させる普請(土木工事)を代官所に申し出た際に、下流の富野村は、文治郎を先頭に「六ケ池には水の流出口がなく、大雨の時に洪水被害が生じる」と猛反対し、代官所に普請反対の訴えを起こしました。普請は取り止めになったものの、文治郎は謀反人として処刑されたということです。
 富野村は文治郎を村の恩人として語り継ぎ、百年後の天保十年にやっと極楽寺にお墓をつくり石碑を建立したとのことです(「文治郎の碑」宇治・山城の民話Ⅱ(文理閣))。「庄屋文治郎さんの大岡裁き」は、文治郎が一揆に加勢し、家が闕所になったと伝えています。

 
〔極楽寺にある文治郎の供養碑〕
 極楽寺は、京都府城陽市富野南垣内81番地にある浄土宗のお寺で、仏師快慶が製作にかかわった国重要文化財の木造阿弥陀如来立像が安置されています。境内の北側の部分が墓地になっており、表門近くの一隅に村人が作ったという文治郎の供養碑があります。その背後には新たに文治郎の供養碑が建立されています。この碑の前に立つと、富野村の人々から信頼されて裁きを行い、自分を犠牲にして富野村を守った庄屋文治郎が偲ばれます。
 
2020年6月