探訪 杉山 潔志


守護不入之所


▲境内の「かしき石」
 JR山崎駅を降りてすぐの南西側に「油の神様」として有名な離宮八幡宮がある。宮社の由緒によれば、平安時代の初めころ、太陽がわが身に宿る夢を見た清和天皇のお告げにより、豊後国の宇佐八幡宮から神霊を奉じて帰郷した僧行教が山崎の地に霊光を見たので掘ったところ、岩間に清水が湧き出したので、石清水八幡宮を創建したとのことである。それを偲ばせるように現在も、離宮八幡宮の境内には石清水八幡宮の文字が刻まれている燈明がある。その後、石清水八幡宮は、対岸の男山(八幡市)に分神され、山崎の八幡宮は嵯峨天皇の河陽(かや)離宮があったことから、離宮天満宮と呼ばれるようになった。

 山崎の地は、西国街道が通るだけでなく、木津川、宇治川、桂川の三川合流点に当たり、奈良時代には瀬戸内海から淀川、木津川を経て平城京に至る河川交通の要衝の地として山崎の駅が置かれ、僧行基によって淀川に山崎橋(河陽大橋)が架けられた。平安時代になって、駅舎を利用して河陽離宮が作られ、861年から山城国府として利用された。平安時代には、毎年4月、天皇の勅使が離宮八幡宮を経て、石清水八幡宮に詣でたが、勅使が対岸に向かう行事は、五十余艘の船を仕立て藤の花をかざした壮麗な行列で、「日使頭祭」と呼ばれ、北の葵祭りと並び称されたという。


▲油祖像
 離宮八幡宮は、中世には油座の本所となったが、その起源は、離宮八幡宮の神人たちが荏胡麻(えごま)という植物から油を絞る道具を発明し、石清水八幡宮に燈明油を奉納したことによる。格式ある神社に燈油を生産して奉納することは神事であり、朝廷や幕府から手厚い保護を受けるようになり、燈明油生産・販売の特権を手に入れた。そして、山崎の住人たちは、神社だけではなく、一般の人々にも燈油を販売していく油商人となって備前、阿波、伊予、肥後などから荏胡麻を仕入れて油を絞り、播磨から畿内、美濃、尾張などに独占的な販売権を持って繁栄した。離宮八幡宮は、室町時代に社殿が整備され、水無瀬(現大阪府三島町山崎)から円明寺(京都府大山崎町)までを神域として全国の油商人の信仰を集め、江戸時代には「西の日光」とまで言われた。現在は、社殿の右に油壺を持つ神人の像(油祖像)があり、社務所の前には荏胡麻が植えられて、離宮八幡宮が「油の神様」であることを窺わせている。

 戦国武将の斎藤道三の物語は、この地の油商人から下克上によって戦国大名となった父子二代の活躍を一人の人生として描いた出世譚である。また、伏見区下油掛町にある西岸寺の油懸地蔵尊の由来は、山崎の油商人が門前を通ろうとした際に転んで油を流していまい、災難と思って桶に残った油を地蔵尊にかけて帰ったところ、商売が繁盛して長者になったというので、以来、願い事がある者が油をかけて祈願するようになったことによるという。


▲由来書(クリックすれば大きく表示します)
 離宮八幡宮の表門横の境内には、「八幡宮御神領守護不入之所」、「八幡宮御神領大山崎総荘」の石碑が立てられている。離宮八幡宮の領域は、中世に油座としての特権と日使頭祭などをつかさどる代償として年貢が免除され、自治が認められていったのである。その後、織田信長や豊臣秀吉によって年貢が課された時期があったが、江戸時代になると幕府の社寺保護政策のもとで、950石の神領を与えられ、年貢の免除と自治が認められた。住人は合議と当番制で祭や神領の行政を行ったようである。中世の自治都市といえば、堺や博多が有名であるが、山崎も中世の自治都市であった。他の自治都市が戦国動乱の中で、自治を奪われていく中で、山崎の住人は、離宮八幡宮を表に押し立てて明治に至るまで住人による自治を行っていたことは特筆に値する。

 しかし、江戸時代になると、原料の主役が荏胡麻から菜種に変わり、燈明としてだけでなく食用として油が各地で広く生産されるようになった。これに伴い、山崎の油生産は衰退し、自治を支える経済的基盤が弱体化していった。そして、離宮八幡宮は、1864年、蛤御門の変で敗退してきた長州軍の屯所とされたため、会津藩兵に攻められて焼失した。中央集権を目指す明治政府は山崎の自治を認めず、1871年、八幡宮の境内の北側は削り取られて東海道本線の敷地となった。その8年後、離宮八幡宮は再建されたものの、もとの3分の1以下に縮小されて現在の形となった。

 山崎の自治の歴史は、自治が成立するためには、そのための制度的な保障とこれを支える経済的基盤が必要なことを物語っている。現在、小泉内閣ものとで全国で市町村の合併が進められ、京都府でも、京丹後市、南丹市、(新)福知山市など新自治体が次々と発足し、京都府南部でも、木津・加茂・山城3町の合併協議会や宇治市・城陽市・宇治田原町・井手町の合併任意協議会が発足している。しかし、これらの合併は、政府の主導による「上」からの合併がほとんどである。自治体経営の効率化という目的のために住民サービスが低下しないかとの危惧もある。広域化すれば市町村が自治体として機能していくというわけではない。憲法に規定された“地方自治の本旨”に基づいて、自治機能の拡充と財政基盤の確立を保障することが重要である。そのためには、住民が自治体の主人公として日常的に地域の問題について発言し、行動できるような情報の公開や民主主義の制度的保障とともに住民が社会的、歴史的に蓄積された地域の財産を活用し、さらに住民の能力を引き出して、地域が自立できるような経済的な施策が重要であろう。 


(2006年2月更新)