探訪 杉山 潔志


一休さん

▲酬恩庵(一休寺)総門 写真をもっと見る
 京田辺市薪は、石清水八幡宮の神事に薪を進上したことで薪庄と呼ばれ、これが地名の由来という。この地は、一休さん(一休宗純)が晩年をすごした地としても知られている。一休は、1456年に荒廃していた妙勝寺を再興して草庵を構え、師の恩に報いるという意味で酬恩庵と称した。酬恩庵は一休にちなんで一休寺と呼ばれ、この名前のほうがよく知られている。
 一休は、1394年正月1日、南朝を吸収して南北朝を終わらせた後小松天皇と母は南朝方の公卿の娘との子として生まれた。母は嵯峨の民家で一休を生んだ。このような出自のため、酬恩庵内の一休の墓所は、御廟所として宮内庁によって管理されている。一休は6歳で京都安国寺に出家し、周建と呼ばれたが、このころから秀才振りを発揮したという。13歳で東山の建仁寺に移り、本格的に漢詩を学び、15歳の時に師を驚かせるような詩を作り、16歳のときには、家柄にこだわる兄弟子に憤慨する漢詩を作っている。
 一休といえば、頓知咄が有名である。これらの咄は江戸時代になってまとめられたもので、そのすべてが真実であるとはいえないであろう。しかし、そこには、すでに柔軟な発想、奇抜な行動、権威に対する反骨など青年期以降の一休の生き方が既にあらわれている。一休は、17歳で建仁寺を出て、謙翁宗為に師事し、名を宗純と改めた。21歳で師宗為を亡くした後、瀬田川で入水自殺を試み、母の随身に助けられたという。その後、堅田の祥瑞庵の華叟宗曇禅師を師と仰ぎ修行を重ね、25歳のときに、華叟から一休の号を受けたが、一休自身の次の道歌に由来するといわれている。

   有漏路(うろじ)より無露路(むろじ)にいたる一休み雨ふらばふれ風ふかばふけ


▲酬恩庵・鐘楼 写真をもっと見る
 有漏というのは仏教用語で、心がけが悪いと知恵や知識が体中の穴から漏れていくことで、凡人のことを有漏というそうだ。仏の道を進もうとする一休の決意がこの歌に窺えよう。
 27歳になった一休は鴉が鳴くのを聞いて大吾したという。そこで、華叟が一休に印証を渡そうとしたが、形式禅を排する一休は受け取らなかったと伝えられている。一休は、35歳の時、華叟と死別した。その後、「風狂」の境地にたって偽善や形式主義を批判・風刺しながら一揆が頻発する乱世の中で放浪の生活をした。堺では、自由禅・風流禅を説き、街頭禅も試みた。62歳のときに「自戒集」を編纂し、64歳のときに「骸骨」(骸骨を借りて民衆に諸行無常を説いた仮名法語)を刊行した。このころに、薪村の妙勝寺を修復し、酬恩庵を構え、大応国師(大徳寺の創立者である大燈国師の師)の木造を安置した。1469年には、応仁の乱の難を避けて大和、和泉を巡ったが、そのとき盲目の旅芸人森女と会い、森女を薪村に連れ帰った。一休77歳のことである。87歳のときに著した「狂雲集」には、森女との官能的な情交をうたった詩が収められている。80歳のときに、戦乱で焼けた大徳寺再興の勅令を受け、翌年第48世大徳寺住持となった。1475年には東山にあった虎丘庵を移し、慈揚塔を建立し、88歳で没するとこの塔に葬られた。
 薪の地には、一休さんにまつわる話がいくつも残されており、「宇治・山城の民話ll」(宇治民話の会:文理閣)で紹介されている。その1つに「手ばらみ川」という話がある。青年時代の一休さんからは想像もできないが、話の概略は次のとおりだ。一休さんが若いころ京都から妙勝寺に来たとき、手原川にかかる橋を渡ろうとして下を見ると17〜8くらいのかわいい娘が尻からげをして洗濯をしていた。一休さんは、話しをしてみたいと思い橋の下に降りて行ったところ、娘は顔を真っ赤にしてもじもじするだけなので、娘の手をとって握りしめたという。それから、4、5か月たったころ、娘のお腹が大きくなった。親が何度も問いただすと、娘はやっと、ときどき托鉢に来る若い坊さんに手を握られたと話した。一休さんに違いないと考えた父親は妙勝寺に怒鳴り込み、「娘を嫁にするか、元の体に戻すか、2つに1つ、よく考えて返事をせよ。」とうなり散らしたが、一休さんは、「仏に仕える身。手を握っただけ。」と答えた。手を握っただけでお腹が大きくなるわけがないと何度問い詰めても、一休さんの返事は同じであった。それで、村人たちは、この川を「手ばらみ川」と呼ぶようになったという。

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 「手ばらみ川」の話はこれで終わりだが、娘の父親でなくとも、手を握っただけで娘が孕むとは納得できまい。現代では、裁判所に訴えて真実を究明し解決することになろう。その場合、まず、「嫁にせよ」という婚姻請求は、娘本人からであれ、父親からであれ認められない。裁判所といえども個人に婚姻を強制することはできない。一休さんに婚姻意思がなければ婚姻は成立しないからだ。次に、「元の体に戻せ」というのは中世では困難であろうが、現代では堕胎手術という方法がある。完全に元の体に戻る訳ではないが、妊娠した状態ではなくなる。そして、未成年である娘の両親が法定代理人として堕胎手術の料金を一休さんに請求することになるのであろうか?このような請求が法的に可能であるかは単純ではない。可能であるとしても、「手を握っただけ」という一休さんの答弁が気にかかる。裁判所は、一休さんに娘の胎児を一休さんの子と認めるのか否かを釈明することになろう。一休さんが否認したときは、娘さん側は一休さんの子であると証明しなければならない。現代では、DNA鑑定などで証明することになるのであろうか。
 娘が出産した場合、一休さんが認知しなければ、認知を求める調停や審判の申立、認知の訴えを起こすことになろう。認知の訴えは、子の法定代理人が提起することになるが、娘が未成年であるため、娘の両親が提起することになる。出産前には、一休さんに認知請求はできないが、一休さんは娘の承諾が得られると胎児を認知することができる。
 法律実務に携わる者は、おもしろい説話に触れても現代の法律に照らすとどうなるのかと考えてしまう。悲しい性(さが)というべきであろうか。

(2006年5月更新)