探訪 杉山 潔志


返済猶予の今昔

 2009年11月30日、中小企業金融円滑化法(モラトリアム法)が成立し、12月4日に施行されました。この法律は、不況の深刻化の中で苦しむ中小零細企業の事業主や住宅ローンの借主を支援することを目的とする2011年3月までの時限立法ですが、銀行や信用金庫などの金融機関に対し、中小企業や住宅ローンの借主から申し込みがあった場合に貸付条件の変更などを行うよう努めること、貸付条件の変更などの措置を適正・円滑に行うための体制を整備し、整備状況を開示すること、行政庁に対し貸付条件の変更などの実施状況を報告することを義務付け、内閣総理大臣はその結果を公表すると定めています。
 中小企業金融円滑化法では、貸付条件の変更などが努力義務にすぎず、また、住宅金融支援機構(旧・住宅金融公庫)など政府系の金融機関からの借入が対象外とされていることから、借主支援の目的がどの程度実現されるのか疑問視する意見も出されています。しかし、近代市民社会・資本主義社会は、個人が私法上の法律関係を自由意思にもとづく合意によって自律的に形成できるとするとともに、こうして形成された合意に拘束されるという私的自治の原則に立脚して成立していますので、国家が破産などの手続きによらないで、私人間で成立した特定の債権債務関係を権力的に変更することには限界があると言わざるを得ません。最近の新聞報道によると、金融機関に専用の相談窓口やフリーダイヤルが設けられ、返済条件変更に関する相談件数が急増しているとのことです。ただし、返済条件の変更が相当数なされている一方、リストラや解雇された人が返済猶予を求めても断られる事例も相当数あるようで、今後の運用が注目されるところです。
 
▲物集女城跡の土塁跡(北側) 写真をもっと見る
▲勝竜寺城跡・勝竜寺城公園の管理等(長岡京市勝竜寺)
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究極のモラトリアムといえば、返済義務の永遠の猶予、すなわち債務の帳消しです。中世の日本では、時の権力者によってしばしば徳政令が実施され、借金の帳消しが行われていました。「徳政」は、天皇の代替わりや災害の発生などを契機として改元が行われた際に、貧民救済や神事の興行、訴訟処理などの形で行われた社会政策で、売却地や質流れ地をもとの権利者に無償で還付したり、所領や貸金などをめぐる訴訟を円滑に処理することによって、政治体制を維持・強化することを目的としていました。鎌倉時代になると、武士階級の台頭、承久の乱での朝廷軍の敗北による貴族社会の危機などの中で、求心力を回復しようとした朝廷が「徳政」を行いました。鎌倉幕府も朝廷政治を批判する立場から、朝廷に「徳政」を求めることもありました。このような中で、後嵯峨上皇のもとで記録所が再建され、「徳政」の推進機関となりました。鎌倉時代の「徳政令」には、貧窮した御家人を救済する色彩が強かったようです(永仁の徳政令)。
 室町時代になると、国人・土豪(地侍、小領主、村落領主ともいう)を中心とした村落共同体(惣、国、所)や複数の村からなる地域社会が発達し、村落共同体を単位とした土一揆や土一揆を母体にして土豪などを取り込んで借金棒引きを求める徳政一揆が発生しました。徳政令は、室町幕府によって行われたほか、一揆の勢力や在地勢力が私徳政を行うこともありました。
 山城地域は、土一揆や徳政一揆が頻発した地域ですが、中でも南山城地域や西岡(にしのおか)地域では、このような一揆が激しく戦われました。西岡は、山陰道以南の桂川右岸の地域を指します。その範囲には、京都府向日市、長岡京市の全域と京都市西京区、南区と乙訓郡大山崎町の一部が含まれますが、大山崎は含まれません。「戦国時代、村と町のかたち」(仁木宏・山川出版社)によると、西岡では、14世紀ころまでに垣内集落(かいとしゅうらく:一定の領域に民家が稠密に建ち並ぶ集落形態)が成立して村落共同体を形造り、下津林に革島氏、大原野に中沢氏、上久世に寒川氏、下久世に久世氏、久我に小寺氏、物集女に物集女氏、鶏冠井に鶏冠井氏、今里に能勢氏、開田に林氏、神足に神足氏、友岡に友岡氏、奥海印寺に高橋氏など多くの国人・土豪がいて、堀をめぐらせた館や城を設けていたとのことです。長岡京市に築かれた勝龍寺城は、京都に進出しようとする南朝方に対抗するために北朝方が築いた城ですが、応仁・文明の乱では西岡地方における西軍(畠山義就)の拠点となり、戦国時代には、織田信長が西岡を攻略して細川藤孝に与えられ、堅固な城に改修されました。  
▲勝竜寺城跡の北門跡 写真をもっと見る

 徳政令は、馬借や農民、国人・土豪らの一揆を契機として発せられただけでなく、応仁・文明の乱以降の戦国乱世に幕府や守護らが軍事動員の見返りとして発せられることもありました。また、国人・土豪は、一揆の主体として登場するだけでなく、幕府や守護らとの被官関係を通じて一揆への参加を禁じられたり、一揆を弾圧する側に回ったりしました。徳政令によって損失を蒙る債権者は、徳政令を阻止したり、適用地域から除外してもらうため、幕府や守護らに金品を送るなどしていたようです。乙訓地域では、油の専売権を認められ、守護不入権を獲得して都市化し財力を有していた大山崎に金融業を営む者が多く(当ホームページ「守護付入所」参照)、徳政をめぐって西岡地域の国人・土豪、馬借、農民らと激しく対立し、流血の惨事に至ることもありました。西岡地域では、畠山氏、細川氏、三好氏など対立抗争の影響を受けた国人・土豪の被官関係の変化、軍事動員の有無やその結果、大山崎との力関係などによって徳政の約束やその反故などもあり、一揆や徳政令も複雑な様相を呈したようです(「畿内・近国の戦国合戦」(福島克彦・吉川弘文館)、前掲「戦国時代、村と町のかたち」など参照)。
 中世後期における生産力と村落共同体の発達は、従来の荘園制に立脚した生産関係を崩壊させ、近世という新しい時代を準備しました。西岡地域に残されている国人・土豪の城や館の跡を訪ねると、中世に生きた人々の躍動が伝わってくるようです。

(2010年5月更新)