探訪 杉山 潔志

南北朝始まりの地・笠置山
〔木津川南岸にそびえる笠置山〕
 笠置山は、京都府相楽郡笠置町の木津川南岸にそびえる標高289mの山で、花崗岩から成る多くの奇岩、怪石があります。これら自然物を対象とした信仰が古くからあり、修験道場、信仰の山として知られていました。山頂にある笠置寺は、白鳳時代に開山され、巨大な岩に刻まれた本尊の弥勒大磨崖仏や日本最古といわれる虚空蔵磨崖仏は奈良時代末期のものと推定されています。
 笠置山は、1932年に国の史跡名勝に、1964年に京都府立自然公園に指定されました。
 
笠置山の後醍醐天皇御在所跡
▲笠置山の後醍醐天皇御在所跡
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〔笠置山に立て籠もった後醍醐天皇〕
 笠置山は、元弘の乱の際に後醍醐天皇が立て籠もった山としても有名です。13世紀後半、後嵯峨天皇の皇子の後深草天皇の子孫(持明院統)と弟の亀山天皇の子孫(大覚寺統)との対立が生じ、鎌倉幕府の裁定により両統が交互に皇位を承継していました(両統迭立(りょうとうてつりつ))。大覚寺統の後醍醐天皇は、持明院統の花園天皇の譲位を受けて1318年(文保2年)第96代天皇に即位しましたが、兄の後二条天皇の遺児邦良親王が成人するまでの中継ぎの位置付けでした。
 後醍醐天皇は、自分の子孫への皇位承継を望むようになりましたが、大覚寺統の貴族や持明院統、鎌倉幕府が邦良親王を支持し、邦良親王の病死後、幕府は持明院統の量仁(かずひと)親王を皇太子とし、退位の圧力を強めました。これに対し、後醍醐天皇は、1331年、倒幕を計画、発覚すると皇位の象徴である三種の神器を持って京都を抜け出し笠置山に立て籠もりました。笠置山には、現在も反撃投下用のゆるぎ石が残され、二の丸跡や後醍醐天皇行在所跡があります。笠置山は、籠城約1か月、落城しました(元弘の乱)。京都府綴喜郡井手町有王には、笠置山を脱出した後醍醐天皇が伴の藤原藤房と休んだ時に交わした歌に由来する「松の下露跡」の碑があります。
 
〔南北朝の時代〕
 幕府は、後醍醐天皇の京都脱出後、量仁親王を即位させました(光厳天皇)。後醍醐天皇は、捕縛されて隠岐の島に流されましたが、1333年、脱出して足利尊氏や新田義貞を味方に付けて鎌倉幕府を滅亡させ、光厳天皇の即位を否定し、建武の新政(中興)を始めました。しかし、性急な改革や恩賞の不公平、既得権の侵害、非実現的な経済政策などによって公家の支持を失い、尊氏らが離反しました。
 尊氏は、京都で敗れたものの、九州で態勢を建て直し、湊川の戦いで新田・楠木軍を破って入京し、後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗しましたが、尊氏側と和睦し、三種の神器を渡しました。尊氏は、後醍醐天皇を廃帝して持明院統の光明天皇を擁立し、室町幕府を開きました。後醍醐天皇は、1336年、幽閉先を脱出し、尊氏に渡した三種の神器は贋物だとして吉野に朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まりました。両朝廷は1392年に合一し、以降、持明院統(北朝)の皇統が現在まで続いています。
 
笠置町観光協会から見た笠置山
▲笠置町観光協会から見た笠置山
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〔大日本帝国憲法における万世一系論〕
 大日本帝国憲法(明治憲法)は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)と定めています。「万世一系」とは、永遠に同一の系統が続くという意味で(広辞苑)、明治になって作られた成語のようです。"万世一系の天皇"は、古事記の記述を根拠に天皇による日本統治を正当化しようとしたものと指摘されています。
 しかし、"万世一系の天皇"には疑問が呈されました。まず、初代の神武天皇から第9代開花天皇までの天皇は実在しないとの考え方が有力であり、また、崇神天皇以降の三輪王朝、応神天皇以降の河内王朝、継体天皇以降の近江王朝が交替したとの王朝交替説も唱えられています。さらに、両統迭立から南北朝の時代は、万世一系ではなく二系であったといえます。
 
〔南北朝正閏論争〕
 万世一系論への疑問は明治時代からありましたが、当時は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)とされ、不敬罪や治安維持法によって、万世一系に対する自由な研究・論争ができませんでした。このような中で南北朝のどちらを正統とするかという南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)が帝国議会に持ち込まれました。1911年には南朝を正統とする帝国議会決議が行なわれ、小学校の国定教科書に南北朝並立と執筆した責任者の喜田貞吉は休職処分にされ、明治天皇の栽断で南朝が正統とされました。そして、万世一系や国体観念、楠木正成らを忠臣とする皇国史観が国民に教えられ、南北朝時代は吉野時代と呼ばれるようになりました。
 
〔現代の皇位の承継論〕
 第2次世界大戦後は、万世一系論や南北朝問題について自由な研究が行われるようになりましたが、現在でも、戦前と同様に天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっています。
 大日本帝国憲法は、「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ承継ス」(第2条)と定め、明治22年成立の旧皇室典範も男系による皇位承継順序を規定していました。これに対し、日本国憲法は、国会で議決した皇室典範の定めによって皇位の世襲が行われると定めるだけで、女性天皇を否定していません(第2条)。現在の皇室典範は、皇位承継を男系の男子に限定していますが、改正すれば、女性天皇も可能となります。
 皇室典範の規定は、万世二系の発生を回避していますが、女性天皇の是非をめぐる議論は、2006年9月に悠仁親王が誕生して沈静化したものの、議論再燃の可能性がなくなったとはいえません。
 
2016年5月