探訪 杉山 潔志

長岡京における土地売買
〔土地の売買〕
 売買は、当事者の一方が財産権を相手方に移転し、相手方がその代金を支払うことを約束することによって効力を生じる契約です(民法555条)。財産的価値を有する権利を財産権といい、所有権などの物権や債権、社員権、知的財産権、その他法律によって認められる権利が財産権に該当します。土地の売買は、土地の所有権を売買の目的物とする契約です。所有権は、法律の制限内で物を全面的に支配する権利であり、所有者は物を自由に使用・収益・処分できる権能を有します(民法206条)。
 
〔土地売買を支える制度〕
 土地売買の成立には、一定の土地について売主となる所有者が存在し、売買の際に買主が支払う代金、すなわち通貨が必要となります。近代資本主義国家は、国民の財産権を保障し(日本国憲法29条)、強制通用力を有する通貨制度を整備しています(通貨法)。土地の場合、法務局における登記によって土地ごとの所有者が明らかにされ、誰でも登記情報を記載した書面の交付を請求できます(不動産登記法)。現代の土地売買は、財産権の保障や取引の安全の確保、通貨制度の確立の面でも、国家の権力作用と切り離して考えることはできません。
 
〔古代日本における土地売買の発生〕
六条令解(向日市文化資料館冊子「長岡京の歴史と文化」より)
▲六条令解
(向日市文化資料館冊子「長岡京の歴史と文化」より)
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 日本における土地売買の発生は、和同開珎などの貨幣が発行・流通するようになった奈良時代以降と思われますが、判然としません。大化の改新による公地公民制のもとで、租の徴収対象となる口分田(農地)が貴族や農民に班給され死亡により収公される班田収受法が施行されました。しかし、租以外の人頭税(庸、調、雑徭、兵役)の負担が大きく、偽籍、浮浪、逃亡などにより口分田の荒廃が見られる一方で、口分田が不足する事態が生じ、墾田永代私財法(743年)の施行により、開墾した農地の永久私有が認められて初期荘園が成立し始めました。土地の売買は、口分田などの"公地"以外の"私有地"を対象として始まったようです。
 
〔長岡京における土地売買〕
長岡天満宮・本殿
▲長岡天満宮・本殿
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 「六条令解 申賣買家地立券文事」で始まる"六条令解"(ろくじょうれいげ)という文書は、長岡京における土地売買を明らかにしています。"六条令解"には、長岡京右京六条三坊に住む正六位上石川朝臣吉備人(きびと)が家地(長さ十五丈、広十丈)を右京に住む御山造少阿麻女(みやまのみやつここあまめ)に銭5貫600文で売り渡す契約の成立と、官に届出て正式な証明書を作成する手続(立券)を求める旨の本文、保証人2名、延暦七年(788年)十一月十四日の日付が記載されています。解(げ)は下位の役所が上位の役所に提出する文書の形式であり、立券によって、購入地の所有権が国家に認証され、売買手続きが完了する制度であったようです。なお、長岡京の右京六条三坊は、現在の長岡京市八条ケ池の南部ないし長岡公園付近と思われます。
 また、"六条令解"の記載から、売買に関する立券を求める文書が右京六条を管轄する六条令に提出され、さらに六条令から右京職に提出されて判券2通が作成され、うち1通が買主に交付される手続きであったことも読み取れます(国立歴史民族博物館編「桓武と激動の長岡京時代」・「延暦帝の時代」の列島社会 —— 長岡京の内と外(三上喜孝)参照)。
 当時の土地売買契約は契約解除権が留保され、一方の当事者の意思表示で成立した契約を解除できたようです。長岡京は廃都になった後、禁野(一般人の狩猟が禁止された天皇の狩場)となったようですが、「日本紀略」延暦十二年(793年)十二月壬戌の勅は、買い上げた農民の宅地について、平安京遷都によって不要となっても、売買契約を解除して代金を取り戻さないように命じています(都城制研究(6)・平安京遷都後の長岡宮・京 —9世紀の長岡京域— (中島信親)参照)。
 
〔その後の貨幣の流通〕
 貨幣の鋳造と流通、土地売買の制度は、古代国家に対する認識を新たにさせます。なお、貨幣の流通は、10世紀頃に衰退しましたが、11世紀になって民間で宋銭などが使用されるようになって復活していきました(中公新書「通貨の日本史」(高木久史)参照)。国家などによる強制通用力の裏付けがない中で、銭の流通が行われるようになったことにも驚かされます。
 
2018年11月