探訪 杉山 潔志

童仙房(どうせんぼう)
〔高原の地・童仙房〕
 京都府南端の南山城村北部の標高500m程の高原に美しい自然と田園風景が残る童仙房という地域があります。地名の由来は次のようです。
 敏達天皇14年(585年)、奈良の元興寺落慶に山城国井出の住人が参会して仏法を伝授され、大河原の里に来た時に戌亥の方角に金光があり、高台に登ると紫雲棚引いて童子が現れ、そのお告げによって、その地に大伽藍を含む堂千房を設けたことから、「土千房」、「堂千坊」、「道千坊」などと呼ばれました。  時は下り、後醍醐天皇が笠置山で幕府軍に敗れた際、皇女を抱いた乳母が童仙房に逃げて追い詰められ、皇女を滝(稚児の滝)へ投げ、乳母は別の滝(乳母の滝)に身投げしたことから、童仙房と記されるようになったとのことです(相楽ねっと・童仙房区ホームページより)。
 
童仙房四番参会石地区南東部
▲童仙房四番参会石地区南東部
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〔童仙房をめぐる江戸時代の領地争い〕
 江戸時代になって、童仙房に接する野殿(現南山城村)、笠置(現笠置町)、湯船(現和束町)の三郷の間で童仙房をめぐる領地争いが起きました。新田開発により林野が減少し、食料・燃料・肥料・建築材などの確保が深刻化したという事情があるようです。村の境界・領域争いは藩の管轄でしたが、藩の領域を越える争いは関係する村や領主の間で話し合い、解決ができない場合は幕府の評定所への訴えができました。名主や庄屋など村の代表者が評定所へ出頭しましたが、村域に利害のある領主は、宿泊場所の提供、証拠書類の準備、問答の練習、幕府役人への働きかけなど様々な援助を村に行ったそうです(渡辺尚志「百姓たちの山争い裁判」草思社)。
 童仙房をめぐる争いは京都町奉行所に持ち込まれ、野殿領主の柳生藩、笠置領主の藤堂藩、湯船領主の皇室が三郷を支援しました。その結果、正徳4年(1714年)、童仙房をいずれにも属さない地とし、年1回、三郷が集まって行事を協議するとの和解が成立しました。協議の場所は「参会石」の小字名として残っています(同上ホームページより)。  柳生藩と藤堂藩は、山城・伊賀の国境争いもしており、元禄12年(1699年)、幕府評定所の判決にもとづいて国境に二本杭を立てました。
 戦国期には、領域をめぐって自力救済、実力行使が行われましたが、江戸幕府確立後、証拠を重視した訴訟手続きによる解決が定着しました。背景には幕藩体制による公権的平和の確立がありますが、それが集団や個人の自立性や世俗権力を超越する権威が定着する機会を失わせたとの指摘もあります(八鍬友広「闘いを記憶する百姓たち」吉川弘文館)。

 
〔童仙房の開拓〕
 明治になって童仙房は京都府に組み込まれました。府は、明治2年(1869年)、童仙房の開拓に着手し、約2年後に完成、戸数136戸、水田22町歩、茶園60町歩余、雑畑55町歩余の童仙房村ができました。中心地の四番に京都府童仙房支庁が置かれましたが、交通の便の悪さなどの理由で支庁は7年後に木津に移転しました(同上ホームページより)。その後、童仙房村は、大河原村の一部となり、昭和30年(1955年)、南山城村の一地域となりました。
 2019年3月には、童仙房支庁が面していた「役所池」周辺で、地区住民や京都府知事らが出席して開拓150年記念式典が挙行されました。

 
旧大和街道沿いに建立されている二本杭
▲旧大和街道沿いに建立されている二本杭
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〔地方自治体間の境界紛争〕
 現代でも、市区町村境や県境の未定地域は相当数存在し、紛争化している例もあります。市区町村の境界争論には都道府県知事による調停、裁定の制度があり、裁定に不服があれば裁判所に出訴できます(地方自治法第9条)。東京湾の埋立地の帰属をめぐる大田区と江東区の事件では、大田区が都知事の調停案を拒否し、2018年10月に東京地方裁判所に提訴しました。
 青森県十和田市と秋田県小坂町の県境紛争は、2018年10月、約140年振りに決着しましたが、埼玉県三郷市と東京都葛飾区、新潟県糸魚川市と長野県小谷村など14の県境未定地域があるそうです(国土地理院ホームページ)。
 
〔日本の領土問題〕
 領土問題は国家間にも存在します。日本は、ロシアとの北方領土問題、韓国と竹島(韓国名:独島)の、中国・台湾と尖閣諸島(中国名:釣魚台)の各帰属問題を抱えていますが、政府は、尖閣諸島には領有権の問題はないとの立場です。
 北方領土問題では、2019年5月に北方四島ビザなし交流訪問団の一員として国後島を訪れた日本維新の会の丸山穂高衆議院議員が「戦争しないと、どうしようもなくないですか。」などと発言し、衆議院本会議で糾弾決議が可決されました。尖閣諸島の帰属問題では、田中角栄総理と周恩来総理の首脳会談(1972年)や福田武夫総理と鄧小平副総理の首脳会談(1978年)で、中国側が棚上げ発言をしていたとの指摘があります。
 領土紛争は県境や市町村境紛争以上に解決が困難です。主権国家が併存する現在の国際社会では、童仙房を三郷に帰属しない空白の地としたような解決は困難と思われますが、素晴らしい解決策はないものでしょうか。
 
2019年12月