探訪 杉山 潔志

蟹の恩返し
〔普門山蟹満寺〕
 京都府木津川市山城町綺田(かばた)にある真言宗智山派の蟹満寺(かにまんじ)は、飛鳥時代後期の創建と推定され、本尊の銅造釈迦如来坐像は国宝に指定されています。普門山という山号が法華経の観世音菩薩普門品にちなむことから、かつては観音菩薩が本尊であったといわれています。
 所在地の綺田は、古くは、”蟹幡”、”加波多”などと表記され、蟹萬寺の寺号も加波多寺や紙幡寺から蟹萬寺と表記されるようになり、「今昔物語」などに収録されている蟹の恩返し説話と結びついたといわれています。
 
蟹満寺山門
▲蟹満寺山門
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〔「蟹の恩返し」説話〕
 「今昔物語集」(岩波文庫)巻第十六には「山城の国の女人、観音の助けに依りて蛇の難を遁れたる語」と題して概ね次のような説話が掲載されています。

 昔、山城の国久世の郡に法華経を習った慈悲深い娘がいた。娘は蟹を捕らえた人を見掛け、自宅にあった魚と交換して蟹を逃がしてやった。その後、娘の父が蛙を呑もうとしていた蛇に「蛙を許してやれば婿としよう」と言うと、蛇は蛙を逃がして薮に入った。その日の亥の刻に高貴な身なりの男が来て「今朝の約束によって来た」と話した。娘は、3日後に来るよう伝え、男が来ると作らせた倉に入って扉を閉めた。男は蛇の姿に戻って倉に巻き付き尾で扉を叩き続けたが、叩く音が途絶え悲鳴が聞こえた。翌朝、多数の蟹が蛇を挟み殺して去るのが見られた。
蟹満寺・蟹供養放生会会場
▲蟹満寺・蟹供養放生会会場
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娘は観音の加護によって難を免れたと説明し、蛇の苦を救い、蟹の罪報を助けるために蛇の屍を埋め、寺を建てて供養した。その寺を蟹満多寺(かにまたでら)といい、今では紙幡寺(かばたでら)という。娘はただ者でなく、観音の霊験は不可思議だと人々が貴んだと伝えられている。

 蟹満寺は、蟹と蛇の供養のために建てられた観音堂が起源といわれ、毎年4月18日に蟹供養放生会が行われています。2021年の放生会は、新型コロナウイルス感染症のため一般参拝なく僧侶・関係者だけで行われました。観音菩薩の霊験も生命体に分類されないウイルスには及ばないのでしょうか。

〔三室戸寺の蛇体橋〕
 同じような蟹の報恩譚は、宇治市莵道滋賀谷にある三室戸寺にも伝えられています。三室戸寺は西国三十三所第十番札所の観音霊場で、本尊は千手観世音菩薩です。
 三室戸寺の報恩譚では、蟹に助けられた翌日、娘が三室戸寺にお礼に出かけると、参道入口にある橋の上に悲しそうな目をした蛇がいて橋の裏側へと姿を消し、それ以降、雨が降ると橋の裏側に蛇の影が見えるようになり、いつしか橋は蛇体橋と呼ばれるようになったとのことです(「蛇体橋」・宇治民話の会「宇治・山城の民話Ⅱ」(文理閣))。
 娘は蛇を供養するため、蛇の姿をした宇賀神(頭は老翁、体は蛇の金運をもたらす蛇神)を奉納したと伝えられています(三室戸寺のホームページ)が、現在の宇賀神の石像は最近の作のようです。
 
三室戸寺・蛇体橋(寺側親柱)
▲三室戸寺・蛇体橋(寺側親柱)
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〔娘の婚姻を決めた父〕
  蟹の恩返し説話は異類(蛇)婚姻譚と動物(蟹)報恩譚とで構成され、父が娘に相談もなく蛇を婿に迎える約束をしています。古代日本の婚姻形態は明確ではありませんが、妻の父から夫への求婚や夫が承諾を得て妻家の後見のもとに妻家で生活する婿取婚であったようです。そうだとすると、娘の父が蛇に「蛙を許すと婿にする」と言ったことが理解できます。
 中世になると家父長制が成立し、妻が夫の家に入る嫁入婚が広がり、女性の地位は低下して自分の意思で夫を選ぶこともできませんでした。  

〔戦前と現代の婚姻制度〕
 戦前の大日本帝国憲法には婚姻に関する規定がありません。明治民法は、戸主(原則として長男が承継)と家族で構成される家制度を定め、家族の婚姻には戸主の同意を要し、男は満30歳、女は満25歳になるまで家に在る父母の同意がないと婚姻できませんでした。婚姻により妻は夫の家に入って夫の氏を称し、重要な法律行為をするには夫の同意が必要とされました。
 戦前の家制度は、日本国憲法の成立によって一掃されました。日本国憲法第14条は法の下の平等を、第24条は家族生活における個人の尊厳と両性の平等を定めています。憲法の施行から70年余が経過し、札幌地方裁判所は、2021年3月17日、同性婚が認められないのは婚姻の自由や法の下の平等を定めた憲法に違反するとの判決を言い渡しました。夫婦の選択的別姓を望む声も大きくなっています。日本の社会に憲法の価値を実現するためには、婚姻に関しても“国民の不断の努力”が重要であることを示しています。
 
2021年5月