探訪 杉山 潔志

一文橋
〔一文橋の由来〕
 乙訓地域を流れる小畑川は、京都市西京区大枝沓掛町の老の坂峠付近に源を有し、向日市、長岡京市、大山崎町を経由して桂川に流入しています。江戸時代に整備された京都の東寺口(羅城門)から下関(赤間関)を結ぶ西国街道が小畑川と交差する向日市上植野町吉備寺(左岸)と長岡京市一文橋二丁目(右岸)に一文橋が架けられています。
 小畑川は、大雨のたびに洪水を発生させ、一文橋もその度に流されていたようです。橋の架け替えには多額の費用がかかるので、架け替え工事費用にあてるために橋を渡る人から一文の通行料を徴収するようになったと伝えられています。これが一文橋の名称の由来です。なお、富山県高岡市や高知市にも一文橋という名前の橋があるそうです。
 一文の価値は、米、豆腐など換算対象によって評価に差異が生じるので一律の評価はできませんが、江戸時代後期の一文は概ね現在の数円程度で、物価が上昇した幕末には1円以下となったようです。

一文橋交差点
▲ 一文橋交差点
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〔江戸時代における架橋と橋の管理〕
 江戸時代には、主要幹線道路の架橋・整備・管理を幕府が行ない、そのような橋は公儀橋(江戸では御入用橋)と呼ばれ、架橋などの経費を町人が負担していた橋は町橋と呼ばれていました。
 江戸時代、京では三条大橋、三条小橋、五条大橋、中立売橋などが、伏見では観月橋、京橋、肥後橋、直違橋などが公儀橋でした。大坂では天満橋、天神橋、京橋、難波橋、高麗橋、長堀橋など多くの公儀橋が架けられていました。瀬田の唐橋、宇治橋、深田橋(向日市)なども公儀橋でした。
 公儀橋(御入用橋)は幕府が代金を支払って町方に管理を請け負わせていたようですが、元禄以降、幕府財政の逼迫によって江戸の永代橋や新大橋は、町方に払い下げられて有料橋となり、幕府が橋詰広場に床見世の開業を許可するなどの管理費用支援策を講じて存続されました。西国街道の寺戸川(深田川)に架橋された深田橋も京都代官が1697年に架橋したものですが、1714年に寺戸村民によって石橋に架け替えられ、村の管理となったとのことです(向日市観光協会のホームページより)。


新木津川橋西側・二輪車料金箱
 ▲新木津川橋西側・二輪車料金箱
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〔現代の有料道路・有料橋〕
 道路法第2条1項は、一般交通に供する高速自動車国道、一般国道、都道府県道、市町村道を道路と定義し、道路に附属して設けられたトンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーターなど道路と一体となって道路の効用を全うする施設、工作物、附属物も道路に含むと定めています。
 利用者から道路やその一部の通行の料金を徴収するには国土交通大臣の許可が必要です(道路整備特別措置法)。有料道路内に架けられた橋は有料道路の構成施設となりますが、通行だけが有料とされている橋もあります。京都府下では、城陽市・京田辺市間の木津川に架けられた京奈和自動車道の新木津川橋は、橋のみの普通自動車の通行料金が100円とされ、「100円」橋とも呼ばれています。小型自動二輪車以下の二輪車や自転車も指定された通行帯を通行でき、料金は10円です。

新木津川橋下流側の歩行者・二輪車レーン
 ▲新木津川橋下流側の歩行者・二輪車レーン
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〔新しい人権・交通権の提唱〕
 交通権学会は交通権(国民の交通する権利)を提唱しています。交通権は、日本国憲法第22条(居住・移転及び職業選択の自由)、第25条(生存権)、第13条(幸福追求権)に根拠を有する新しい人権であって政府・自治体・交通事業者によって保障され充実されるべきものと主張されています(交通権学会・交通権憲章)。民主党政権時代の2013年に成立した交通政策基本法の法案審議の際に、交通権を盛り込むことが検討されましたが、実現しませんでした。
 マイカーの普及や農山村地域などの過疎化の中で、鉄道の廃線や不採算バス路線の廃止などが進行し、「交通弱者」や「買物難民」が社会問題化しています。買物を行い、医療機関での診察・治療を受け、文化や芸術に接することは生存権の実現に不可欠であり、その実現のために「交通権」を新しい人権として位置づけ、国や自治体に交通権実現の責務を認めなければならないという現実があるように思われます。
 
 
2021年11月