探訪 杉山 潔志

和気王の謀反・紀益女の呪詛

〔和気王(わけおう)と紀益女(きのますめ)〕
 天武天皇の曾孫の和気王は、天平勝宝7年(755年)の臣籍降下の4年後に皇籍復帰し、孝謙上皇(重祚して称徳天皇)に藤原仲麻呂(恵美押勝)が行っていた軍備を伝え、その功績によって押勝の乱の後、従三位に昇叙されました。和気王は、称徳天皇に子がなく、皇太子も決まっていなかった状況下で、天平神護元年(765年)8月、皇位を望んで謀反を計画しましたが、露見して逃走中、大和国添上郡にある率河(いさがわ)社で捕縛され、伊豆へ流罪となりました。配流途中の山背国で絞殺され、狛野に葬られました(「続日本紀」称徳天皇・天平神護元年八月一日の条)。なお、和気王の抹殺には、舎人親王系皇統の阻止の目的があったとの見解もあります。
 当時著明な巫女で和気王の寵愛を受けていた紀益女は、王の依頼を受けて称徳天皇と道鏡を呪詛したといわれ、和気王の企てが発覚すると、益女も捕縛されて山背国綴喜郡松井村で絞首に処せられました(同上)。


古代山陽道・山本驛旧跡碑
 ▲ 古代山陽道・山本驛旧跡碑
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〔古代の交通路〕
 奈良時代には平城京と七道を結ぶ駅・駅馬を具えた七道駅路(大路、中路、小路に区分)が整備されました。狛野は木津川右岸の上狛と左岸の下狛を含む地域と思われますが、伊豆に流罪となった和気王は中路の東海道(平城京〜木津〜木津川沿いを上流に行くルート)を通ったと思われるので、和気王が葬られたのは上狛郷と推定されます。
 他方、木津から下流の左岸地域は、平城京と大宰府を結ぶ幹線道路で、唯一の大路であった古代山陽道と古代山陰道(小路)の併用道路が走り、最初の駅(うまや)の山本駅(現・京田辺市三山木付近)で両道が分岐し、益女が絞首された松井村は古代山陽道沿いに位置しました(井上満郎「古代南山城と渡来人」京都埋蔵文化論集第6集)。ゆうゆうサイクルの会発行の「古代山陽道を巡るサイクルマップ」は、古代山陽道を府道八幡木津線に沿って北上し、手原川付近で北西に曲がって大住・松井地区を通って樟葉に至ると推測しています。京田辺市松井地区から八幡市内里女谷・美濃山荒坂付近には古墳時代末期に横穴古墳群が造営され、益女殺害の適地と考えられたのでしょうか。
 田園の残る古代山陽道にたたずむと、夢破れて連行され、悲恋に散った和気王と紀益女の姿が想起されます。



古代山陽道を巡るサイクルマップ
 ▲ 古代山陽道を巡るサイクルマップ
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〔養老律令と謀反・呪詛〕
 孝謙天皇は、謀反事件後の天平宝字元年(757年)、養老律令を施行しました。律は現在の刑法にあたり、令は行政法規などが規定されていました。養老律令は、平安中期ころには現実の社会・経済との齟齬が大きくなって形骸化しましたが、廃止法令が出されず、形式的には明治維新期まで存続しました。戦国時代までに散逸した養老律令は、逸文収集が行われ、名例律、衛禁律、職制律、賊盗律などが復元されています。冒頭の名例律は「五刑」(5の刑罰の種類)、「八虐」(8の重大犯罪類型)などの総則規定を置いています。「八虐」には、謀反(むへん)(天皇を殺害し王朝の転覆を企てること)、謀叛(むほん)(天皇に背き反乱者や外国に与すること)不道(死罪には当らない3人の家族の殺害・四肢切断・焼殺、蠱毒(こどく)・厭魅(えんみ)等)などが定められていました。蠱毒は動物や虫を殺してその魂を送り付ける呪詛、厭魅は人型を用いた呪詛のようです。賊盗律は、謀反は斬、謀叛は絞を基本刑と定めていました(新井勉「古代日本の謀反・謀叛について」日本法學第78巻第1号参照)。


古代山陽道沿いにあった大住車塚古墳
 ▲ 古代山陽道沿いにあった大住車塚古墳
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〔呪詛に対する処罰〕
 呪詛の処罰は、呪詛によって人の生命や身体を害せられるとの考え方に立脚しています。明治政府が明治3年12月に公布した新律綱領にも「厭魅を行い符書(人を呪い殺す呪文を記した文書)を造り人を殺そうとした者は殺人罪をもって論じ、疾苦させようとした者は罪二等を減ずる。」という厭魅罪が規定されていました。呪詛行為が殺人罪から除外されたのは、明治15年(1882年)施行の旧刑法からですが、その第四編違警罪第427条12号は「妄に吉凶禍福を説き又は祈祷符咒(ふじゅ)等を為し人を惑わして利を図る者」は、1日以上3日以下の拘留又は20銭以上1円25銭以下の科料に処すと定め、明治41年施行の警察犯処罰令第2条17号にも「妄に吉凶禍福を説き又は祈祷、符呪等を為し若は守礼類を授与して人を惑わしめたる者」は30日未満の拘留又は20円未満の科料に処すとの定めがありました。明治時代には呪詛行為は殺人罪ではなくなったものの犯罪とされていたのです。  

〔呪詛と不能犯〕
 警察犯処罰令は、昭和23年5月1日、軽犯罪法の施行によって廃止され、呪詛行為は犯罪ではなくなりました。その背景には、呪詛に対する科学的な認識の普及と法益侵害の結果を処罰の対象とする考え方の進展があります。
 現在では、呪詛行為は、犯罪的結果を意図して行為しても結果を発生することのできない”不能犯”の典型例として処罰の対象とはなりません。ただし、神社の樹木に藁人形を打ち付ける行為が器物損壊罪にあたり、符書の繰り返しの送り付けが脅迫罪にあたる場合があります。注意が必要です。
 
2022年5月