弁護士の “やましろ”探訪 〜古から現代へ〜
説法石
杉山 潔志

〔日像上人の京都での布教活動〕
向日市の向日神社大鳥居の南側に説法石と呼ばれる大きな石が置かれています。日像上人が腰を降ろして西国街道を行き交う人に説法を行った石と伝えられています。
日像上人は、文永6年(1269年)、下総国に生まれ、日蓮宗の開祖日蓮上人の弟子となりました。永仁元年(1293年)、日蓮上人の遺命を受けて京都での布教を決意し、佐渡・北陸を経由して永仁2年(1294年)に上洛、禁裏に布教活動を上奏して辻説法を始めました。それによって柳屋仲興、大覚寺の僧・大覚らが日蓮宗に帰依したと伝えられています。
向日市の向日神社大鳥居の南側に説法石と呼ばれる大きな石が置かれています。日像上人が腰を降ろして西国街道を行き交う人に説法を行った石と伝えられています。
日像上人は、文永6年(1269年)、下総国に生まれ、日蓮宗の開祖日蓮上人の弟子となりました。永仁元年(1293年)、日蓮上人の遺命を受けて京都での布教を決意し、佐渡・北陸を経由して永仁2年(1294年)に上洛、禁裏に布教活動を上奏して辻説法を始めました。それによって柳屋仲興、大覚寺の僧・大覚らが日蓮宗に帰依したと伝えられています。

〔三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難〕
延暦寺など諸大寺は日像上人の布教活動に反発して訴え、上人は後宇多上皇によって三黜三赦(さんちつさんしゃ)(3度の流罪・追放と3度の赦免)と呼ばれる迫害を受けました。最初は徳治2年(1307年)で土佐国への流刑(2年後に赦免)となり、その1年後に紀伊国への流罪(翌年に赦免)とされました。3度目は元亨元年(1321年)に洛外追放となりましたが、十数日で赦免されたそうです。
日像上人は、土佐への配流の途上、向日神社の明神の化身・白鳩に引き止められ、説法を始めたとのことです。また、追放中、洛西の真言宗・真言寺の実賢、深草の真言宗・極楽寺の良桂、松ヶ崎の天台宗・歓喜寺の実眼と法論を行って折伏し、これらの寺院は日蓮宗に改宗しました。改宗後、真言寺は真経寺と改称し、江戸時代初期に南北2寺に分割されました。極楽寺は鶴林院と改称し、妙顕寺で入寂した上人がここで荼毘に付されて葬られ、さらに宝塔寺と改められました。歓喜寺は妙泉寺、本湧寺(松ヶ崎檀林)と改称し、大正7年(1918年)に妙泉寺と合体して涌泉寺となりました。
延暦寺など諸大寺は日像上人の布教活動に反発して訴え、上人は後宇多上皇によって三黜三赦(さんちつさんしゃ)(3度の流罪・追放と3度の赦免)と呼ばれる迫害を受けました。最初は徳治2年(1307年)で土佐国への流刑(2年後に赦免)となり、その1年後に紀伊国への流罪(翌年に赦免)とされました。3度目は元亨元年(1321年)に洛外追放となりましたが、十数日で赦免されたそうです。
日像上人は、土佐への配流の途上、向日神社の明神の化身・白鳩に引き止められ、説法を始めたとのことです。また、追放中、洛西の真言宗・真言寺の実賢、深草の真言宗・極楽寺の良桂、松ヶ崎の天台宗・歓喜寺の実眼と法論を行って折伏し、これらの寺院は日蓮宗に改宗しました。改宗後、真言寺は真経寺と改称し、江戸時代初期に南北2寺に分割されました。極楽寺は鶴林院と改称し、妙顕寺で入寂した上人がここで荼毘に付されて葬られ、さらに宝塔寺と改められました。歓喜寺は妙泉寺、本湧寺(松ヶ崎檀林)と改称し、大正7年(1918年)に妙泉寺と合体して涌泉寺となりました。

〔権力者によって仏教各派が受けた苦難〕
宗教的迫害・弾圧を受けたのは日蓮宗だけではなく、鎌倉時代の初期には、専修念仏を奉じた法然上人や親鸞上人は念仏停止の断を受け、配流もされています。
日蓮宗の場合は更に受難がありました。日蓮宗には他宗や不信心者の布施供養をせず、信者は他宗の僧に供養しない(不受不施)という宗規・信条があり、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養に各宗派の僧侶に出仕を命じた際、不受不施を貫く派と出仕を受け入れて宗門を守ろうとする受布施派に分裂し、京都妙覚寺の日奥上人は出仕を拒否して妙覚寺を去り、徳川家康が行った受不施派との対論(大阪対論)の際に権力に屈せず、対馬への流罪とされました。不受不施派は江戸幕府から寺請を禁じられた禁制宗派とされました。
宗教的迫害・弾圧を受けたのは日蓮宗だけではなく、鎌倉時代の初期には、専修念仏を奉じた法然上人や親鸞上人は念仏停止の断を受け、配流もされています。
日蓮宗の場合は更に受難がありました。日蓮宗には他宗や不信心者の布施供養をせず、信者は他宗の僧に供養しない(不受不施)という宗規・信条があり、豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養に各宗派の僧侶に出仕を命じた際、不受不施を貫く派と出仕を受け入れて宗門を守ろうとする受布施派に分裂し、京都妙覚寺の日奥上人は出仕を拒否して妙覚寺を去り、徳川家康が行った受不施派との対論(大阪対論)の際に権力に屈せず、対馬への流罪とされました。不受不施派は江戸幕府から寺請を禁じられた禁制宗派とされました。

〔明治維新政府による神仏判然令〕
日本では、奈良時代後期ころからの本地垂迹(ほんじすいじゃく)などの神仏習合思想の影響を受け、神社に神宮寺を建立したり、神のために神前での読経がなされ、寺院が守護神を持つようになりました。江戸時代中・後期になると、国学や復古神道などが神道と仏教の区分を主張するようになり、明治政府は、王政復古、祭政一致の実現のため神道の国教化を目指し神仏分離令(神仏判然令)を発し、その影響を受けて廃物希釈運動が起きました。
日本では、奈良時代後期ころからの本地垂迹(ほんじすいじゃく)などの神仏習合思想の影響を受け、神社に神宮寺を建立したり、神のために神前での読経がなされ、寺院が守護神を持つようになりました。江戸時代中・後期になると、国学や復古神道などが神道と仏教の区分を主張するようになり、明治政府は、王政復古、祭政一致の実現のため神道の国教化を目指し神仏分離令(神仏判然令)を発し、その影響を受けて廃物希釈運動が起きました。
〔信教の自由と日本国憲法〕
このように、仏教は権力者によって弾圧や規制を受けてきましたが、日本では信教の自由という思想が生まれることはなかったようです。これに対し、ヨーロッパでは宗教改革を契機に信教の自由が主張されました。洗建駒澤大学名誉教授は、信教の自由を可能にする要件として①主体的個人の確立、②契約国家観(民主国家観)、③寛容の精神を挙げ、主体的個人の確立について「全体主義的性向の強い世界に生まれたキリスト教的『個』が、全体との関係の中で格闘することによって、真の個の確立を果たし得たのに対し、社会関係や規範の問題を教学の課題から脱落させていった仏教は、その個人主義的性向にもかかわらず、現実社会の全体主義に何ら関心を示し得なかったものと思われる。」と指摘しています(「宗教法」第6号(1987))。
個の確立のための格闘を通じて成立した信教の自由は、あらゆる精神的自由権確立の推進力となった基本的人権と考えられています。日本国憲法は、このような個人の尊厳、天賦人権の考え方を体現した憲法であり、その20条第1項は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と定めています。基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものです(日本国憲法第97条)
このように、仏教は権力者によって弾圧や規制を受けてきましたが、日本では信教の自由という思想が生まれることはなかったようです。これに対し、ヨーロッパでは宗教改革を契機に信教の自由が主張されました。洗建駒澤大学名誉教授は、信教の自由を可能にする要件として①主体的個人の確立、②契約国家観(民主国家観)、③寛容の精神を挙げ、主体的個人の確立について「全体主義的性向の強い世界に生まれたキリスト教的『個』が、全体との関係の中で格闘することによって、真の個の確立を果たし得たのに対し、社会関係や規範の問題を教学の課題から脱落させていった仏教は、その個人主義的性向にもかかわらず、現実社会の全体主義に何ら関心を示し得なかったものと思われる。」と指摘しています(「宗教法」第6号(1987))。
個の確立のための格闘を通じて成立した信教の自由は、あらゆる精神的自由権確立の推進力となった基本的人権と考えられています。日本国憲法は、このような個人の尊厳、天賦人権の考え方を体現した憲法であり、その20条第1項は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と定めています。基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものです(日本国憲法第97条)
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▲ 宝塔寺(四脚門)
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▲ 宝塔寺・日像上人荼毘所霊蹟
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▲ 南真経寺の説明板(クリックすると読めます)
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▲ 北真経寺の説明板(クリックすると読めます)
2025年6月