弁護士の “やましろ”探訪 〜古から現代へ〜
港町であった伏見
杉山 潔志
▲ 伏見港
〔秀吉がつくった伏見港〕
琵琶湖から流れ出た宇治川(瀬田川)は、宇治橋付近から木津川、桂川との合流地点の間に広大な遊水地・巨椋池を形成し、河岸には水上交通の中継地が形成されていました。
天下を統一した豊臣秀吉は、巨椋池に突き出た丘陵に伏見城を築城しましたが、築城に際し、淀堤、槇島堤、小倉堤を作って宇治川を巨椋池から分離・北上させて宇治川から城内に物資を運び込めるようにしました。そして、築城資材などの搬入のために伏見港を設け、街部に水路(現在の濠川)を設けて外堀とし、小倉堤の道を抜ける大和街道(奈良街道)を整備しました。こうして、伏見は政治と水陸交通の要地となりました
琵琶湖から流れ出た宇治川(瀬田川)は、宇治橋付近から木津川、桂川との合流地点の間に広大な遊水地・巨椋池を形成し、河岸には水上交通の中継地が形成されていました。
天下を統一した豊臣秀吉は、巨椋池に突き出た丘陵に伏見城を築城しましたが、築城に際し、淀堤、槇島堤、小倉堤を作って宇治川を巨椋池から分離・北上させて宇治川から城内に物資を運び込めるようにしました。そして、築城資材などの搬入のために伏見港を設け、街部に水路(現在の濠川)を設けて外堀とし、小倉堤の道を抜ける大和街道(奈良街道)を整備しました。こうして、伏見は政治と水陸交通の要地となりました
〔江戸時代~明治時代の伏見港〕
江戸時代になって伏見城は廃城となりましたが、角倉了以・素庵父子が高瀬川を開削して京都と伏見を結び、伏見港は重要性を増しました。最盛期には約2000隻もの三十石船や十五石船、高瀬舟などが伏見港を行き交いました(月桂冠のホームページより)。また、約1400隻の三十石船や過書船が伏見港と大阪天満の八軒家浜を往来していたそうです(枚方市のホームページより)。
明治元年には、大阪・伏見間を30人乗り旅客船が毎日50隻ほど往復し、約1500人の乗客と800トンの荷物を運んでいました。淀川の河川改修が進んだ明治20年(1887年)には曳航用蒸気船13隻が就航し、年間約53万人の乗客と米約10万6千石、酒約4300石など大量の物資が舟運輸送されました。明治9年には京都・大阪間を結ぶ鉄道が開通しましたが、淀川舟運は運賃の安さもあって黄金期を迎え、明治28年(1895年)には琵琶湖と伏見を結ぶ琵琶湖疎水・鴨東運河が開通し、伏見港は重要性をさらに増しました(松浦茂樹「わが国における近代の河川舟運(Ⅰ)」より)。
江戸時代になって伏見城は廃城となりましたが、角倉了以・素庵父子が高瀬川を開削して京都と伏見を結び、伏見港は重要性を増しました。最盛期には約2000隻もの三十石船や十五石船、高瀬舟などが伏見港を行き交いました(月桂冠のホームページより)。また、約1400隻の三十石船や過書船が伏見港と大阪天満の八軒家浜を往来していたそうです(枚方市のホームページより)。
明治元年には、大阪・伏見間を30人乗り旅客船が毎日50隻ほど往復し、約1500人の乗客と800トンの荷物を運んでいました。淀川の河川改修が進んだ明治20年(1887年)には曳航用蒸気船13隻が就航し、年間約53万人の乗客と米約10万6千石、酒約4300石など大量の物資が舟運輸送されました。明治9年には京都・大阪間を結ぶ鉄道が開通しましたが、淀川舟運は運賃の安さもあって黄金期を迎え、明治28年(1895年)には琵琶湖と伏見を結ぶ琵琶湖疎水・鴨東運河が開通し、伏見港は重要性をさらに増しました(松浦茂樹「わが国における近代の河川舟運(Ⅰ)」より)。
▲ 三栖閘門
〔三栖閘門の建設〕
大正6年(1917年)の台風豪雨は、淀川の三栖堤防を決壊させ、中書島から伏見の町の南西部一帯に浸水被害を生じさせ、観月橋から三栖に至る宇治川右岸に新堤防が築造されることになりました。新堤防により、宇治川と濠川に約4.5mの水位差が生じるため、昭和4年(1929年)、3年の工期を経て水位を上下させる三栖閘門(みすこうもん)が建築されました。完成当時は不安定な日中関係を反映し、石炭などを運送する年間2万隻以上の船が三栖閘門を航行していました(淀川河川事務所のホームページより)。
大正6年(1917年)の台風豪雨は、淀川の三栖堤防を決壊させ、中書島から伏見の町の南西部一帯に浸水被害を生じさせ、観月橋から三栖に至る宇治川右岸に新堤防が築造されることになりました。新堤防により、宇治川と濠川に約4.5mの水位差が生じるため、昭和4年(1929年)、3年の工期を経て水位を上下させる三栖閘門(みすこうもん)が建築されました。完成当時は不安定な日中関係を反映し、石炭などを運送する年間2万隻以上の船が三栖閘門を航行していました(淀川河川事務所のホームページより)。
〔淀川舟運と伏見港の衰退〕
明治39年(1906年)に設立された京阪電気鉄道株式会社は、明治43年(1910年)に淀川左岸を通って大阪天満橋と京都五条間を結ぶ鉄道を通し、大正4年(1915年)には京都三条、昭和38年(1963年)には大阪淀屋橋へと延伸されました。トラックなどの陸上輸送も発達し、淀川舟運はそれら影響を受けて衰退し、昭和37年(1962年)にはなくなりました。昭和39年(1964年)には宇治川上流に天ケ瀬ダムが完成したことで宇治川の水位が大きく低下し、三栖閘門はその役割を終えました。
明治39年(1906年)に設立された京阪電気鉄道株式会社は、明治43年(1910年)に淀川左岸を通って大阪天満橋と京都五条間を結ぶ鉄道を通し、大正4年(1915年)には京都三条、昭和38年(1963年)には大阪淀屋橋へと延伸されました。トラックなどの陸上輸送も発達し、淀川舟運はそれら影響を受けて衰退し、昭和37年(1962年)にはなくなりました。昭和39年(1964年)には宇治川上流に天ケ瀬ダムが完成したことで宇治川の水位が大きく低下し、三栖閘門はその役割を終えました。
▲ 閘室水路
〔河川舟運の未来〕
平成7年(1995年)に発生した阪神淡路大震災は、災害対策、物流、観光、学習などを目的とした河川舟運を見直す契機となりました。しかし、その実現には、船着場の整備、橋梁のクリアランスの確保、ハンドリング(船と陸上輸送手段間の荷物の積替え)、内陸まで航行可能な船舶の研究・開発など多くの課題があります。
河川舟運のためには法整備も必要です。河川法第28条は、河川管理のために河川管理者が船や筏の河川航行や大きさなどを規制できる旨規定しています。東京都は、河川法施行令にもとづいて東京都荒川水系水上安全条例を定めており、大阪府も大阪市内の河川の航行に適用される河川水上航行ルールを定めています。大阪では、大川、堂島川などを観光船が運航しており、大阪八軒家浜から枚方を結ぶ運行も行われているようです。これに対し、京都府には淀川水系の舟運に適用される条例は定められていないようです。
現在、京都市は、宇治川右岸の三栖閘門の下流側河川敷を公民連携によるバーベキュー場、キャンプ場、イベント会場、船上食事施設などを想定した民間業者が収益事業のできる「伏見みなと広場」の建設工事を始めています。
2025年の関西万博の際に、伏見と万博会場を水上交通で結ぶ構想が持ち上がりましたが、淀川には枚方大橋周辺の顕著な土砂堆積、三川合流点下流の水深が浅く流速の速い岩礁帯、伏見港下流の岸側高水敷の侵食に起因する偏流発生があるため、中型以上の船の航行ができないようです(令和4年3月近畿地方整備局「淀川舟運の現状について」より)。
三栖閘門や伏見港に来てみるとかつての盛んな舟運が偲ばれます。しかし、その復活は相当困難なようです。
平成7年(1995年)に発生した阪神淡路大震災は、災害対策、物流、観光、学習などを目的とした河川舟運を見直す契機となりました。しかし、その実現には、船着場の整備、橋梁のクリアランスの確保、ハンドリング(船と陸上輸送手段間の荷物の積替え)、内陸まで航行可能な船舶の研究・開発など多くの課題があります。
河川舟運のためには法整備も必要です。河川法第28条は、河川管理のために河川管理者が船や筏の河川航行や大きさなどを規制できる旨規定しています。東京都は、河川法施行令にもとづいて東京都荒川水系水上安全条例を定めており、大阪府も大阪市内の河川の航行に適用される河川水上航行ルールを定めています。大阪では、大川、堂島川などを観光船が運航しており、大阪八軒家浜から枚方を結ぶ運行も行われているようです。これに対し、京都府には淀川水系の舟運に適用される条例は定められていないようです。
現在、京都市は、宇治川右岸の三栖閘門の下流側河川敷を公民連携によるバーベキュー場、キャンプ場、イベント会場、船上食事施設などを想定した民間業者が収益事業のできる「伏見みなと広場」の建設工事を始めています。
2025年の関西万博の際に、伏見と万博会場を水上交通で結ぶ構想が持ち上がりましたが、淀川には枚方大橋周辺の顕著な土砂堆積、三川合流点下流の水深が浅く流速の速い岩礁帯、伏見港下流の岸側高水敷の侵食に起因する偏流発生があるため、中型以上の船の航行ができないようです(令和4年3月近畿地方整備局「淀川舟運の現状について」より)。
三栖閘門や伏見港に来てみるとかつての盛んな舟運が偲ばれます。しかし、その復活は相当困難なようです。
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▲ 三栖閘門
- ▲ 三栖洗堰
- ▲ 工事中の三栖閘門下流側河川敷
2024年9月