京都南法律事務所

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弁護士の “やましろ”探訪 〜古から現代へ〜

裁判を受ける権利と伏見義民

杉山 潔志
御香宮神社 ▲御香宮神社
 2004年の通常国会(第159回国会)では、いくつもの司法改革関連法案が成立した。主なものを紹介すると、まず、裁判員法がある。この法律は、重罪事件の刑事裁判に市民の中から選ばれた裁判員が裁判官とともに審理に加わって裁判を行うというもので、2009年5月までに実施される。司法に対する市民参加という点では、1923年(大正12年)に陪審法が成立し、市民から選ばれた陪審員による刑事裁判が行われていたが、1943年(昭和18年)に施行が停止され、現在に至っている。裁判員制度は60年ぶりに市民が司法に参加する機会を開くことになる。そのほか、被疑者の段階から国選弁護人を附する刑事訴訟法の改正、裁判を利用しやすくするために日本司法支援センターの設置などを内容とする総合法律支援法、行政に対し義務付け訴訟の提起を可能とするなどの行政事件訴訟法の改正、個別労働事件の迅速・適正な解決を図るための労働審判手続を行う労働審判法などが成立した。これら司法改革の中には、刑事事件の証拠開示のやり方や刑事記録と守秘義務との関係など、今後の運用に課題を残したものもある。
 これらの司法改革法案の中で、民事訴訟敗訴者負担制度は継続審議になった。敗訴者負担制度は、民事訴訟の敗訴者に勝訴者の弁護費用などの全部または一部を負担させるもので、さまざまな案が検討されてきたが、法案になったは、訴訟当事者の合意による敗訴者負担という制度である。敗訴者負担制度には、相手方の弁護士費用をも負担できる経済力を持っている者は裁判が負担とならないが、そのような経済力のない者には裁判の提起を躊躇させる効果がある。合意による敗訴者負担の場合でも、合意しない当事者に裁判開始時で敗訴を覚悟しているとの印象を与えるため、合意せざるを得なくなることが危惧される。そうなると、経済的弱者は、裁判によって紛争の解決をできなくなる。日本弁護士連合会も、敗訴者負担制度には憲法第32条が保障する裁判を受ける権利を有名無実化する危険性があるとして反対している。
 ところで、裁判については、紛争の当事者や犯罪を犯した者が受けるべき義務と感じる人も多い。しかし、裁判は、権利の実現や適正な手続きの保障のための国民の権利である。このことは、近代以前の裁判と対比してみるとわかりやすい。わが国では、江戸時代にも民事、刑事の裁判手続きがあったが、行政機関から独立した裁判所はなかった。また、裁判にはかなりの負担があったようで、特に、刑事事件で家族や村の連帯責任を課せられたり、江戸表への出頭を命じられると過酷な負担となったようだ。現代と異なるのは、「お上」の処分に異議を表明する行政訴訟の制度が整備されていなかったことだ。そのため、悪政に対し、御法度とされた直訴に訴えることが行われた。
大黒寺・伏見義民の墓 ▲大黒寺・伏見義民の墓
 伏見では、伏見奉行小堀正方の悪政に対する伏見義民一揆が有名である。当初奉行としての評判が高かった小堀正方は、愛妾お芳の方の色香におぼれ、奸臣に囲まれ賄賂や遊興の限りを尽くすようになり、7年間で伏見の町民に10万両の御用金を負担させたといわれている。そのため、伏見町民には乳飲み子を街角に置いて夜逃げする者もあり、捨て子を届けた町内に養育費を出させて奉行所で預かった上、竹田村へ預けて養育させたので、竹田村ではこの子の世話のため農作業もままならなかったという。また、小堀正方は、新町通りに出ていた石を掘り出して捨てるように命じたが、経費が安いとの理由で石を埋めた町内に、命令違反の罰金を課した上、掘り出せたところ、仙石屋敷の手水鉢であることが判明したので、銀の杓子をつけて田沼意次に献上したという。さらに、お芳にせがまれて、大石内蔵助が遊んだことで伏見の名所となっていた撞木町の笹屋の部屋を解体して奉行所内に押収した話や大光寺が末寺から預かっていた志納金を寸借して返済せず、返済督促したことに対し詫び金を取ったという話しなどが伝えられている。
 このような小堀正方の悪政を告発するため、刀物鍛冶・文殊九助ら7名が松平伯耆守に直訴に及んだ。これが伏見義民一揆で、文殊九助らは天明義民と称されている。直訴の結果、願書は却下されたが、小堀正方は、伏見奉行を罷免、領地を没収された上、大久保加賀守へのお預けの身となり、お家断絶となった。しかし、田沼意次に代わって老中首座となった松平定信が7名にお構いなしを申し渡したときには、天明義民はいずれも病死や牢死をしていた。大黒寺には義民7名の遺髪塔があり、御香宮神社には三条実美が額分を書き、勝海舟が本文を書いたという顕彰碑が建立されている。
 わが国においても、裁判を受ける権利が保障されていない時代には、伏見義民のような過酷な歴史的な事実があった。裁判を受ける権利を考えるときに、このような現実があったことを思い起こしてみた次第である。
2004年11月

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