京都南法律事務所

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弁護士の “やましろ”探訪 〜古から現代へ〜

てらだ芋

杉山 潔志
城陽市長池の大連寺 ▲城陽市長池の大連寺
 最近、特許関連の事件がマスコミをにぎわすことが多くなってきた。2004年1月16日には、青色発光ダイオード特許権持分確認請求事件の特許判決があった。東京地方裁判所は、日亜化学工業の従業員で発明者の中村修二さんの青色発光ダイオードの発明に対する貢献度を50%・604億円と認定して、請求額200億円を認める判決を言い渡した。この事件の発明の相当対価額の大きさには驚かされたが、その後、高等裁判所で会社側が中村さんに8億円支払うことで和解が成立したいう。また、2005年9月30日には、知的財産高等裁判所が日本語ワープロソフト「一太郎」の製造・販売禁止、在庫破棄命令を言い渡した東京地方裁判所の判決を覆す判決を言い渡した。「一太郎」は裁判所でも使用されているワープロソフトであり、注目の集まった事件であった。このような特許訴訟は近時、急増しているようだ。
甘藷元祖の石碑 ▲甘藷元祖の石碑
 ところで、人の知的活動の成果は、知的財産権として保護の対象とされ、日本では、特許法、実用新案法、半導体集積回路法、種苗法、意匠法、商標法、著作権法などの法律が制定されている。知的財産を保護する制度は、新規な発明や改良、デザインなどを国家によって保護することと引き換えに、申請・登録して公開させるもので、他の者は、公開された情報をもとに新たな発明や工夫をして、その結果をさらに申請・登録して国家の保護を求めることができる。このような知的財産制度は、資本主義の経済、社会を発展させる原動力の1つになってきたといえよう。
 これに対して、社会主義の国では、発想が異なっている。旧ソ連では、発明をした者には発明者証が与えられ、一定の報償金や特典(共和国名誉発明者の称号、発明品への発明者の氏名の表示、大学などへの無競争入学の権利、住宅の付加面積など)が与えられ、発明は国家が実施していた。
甘藷元祖の石碑 ▲甘藷元祖の石碑
 日本では、徳川幕府は、新しいものの出現を抑制し(「新規法度」)、製品作成などの技術は公開されず、親から子へと相伝されることが多かった。わが国に特許などの制度が導入されたのは、明治以降である。しかし、江戸時代の日本でも製品の作成や農産物の改良・新苗種の導入にさまざまな工夫が行われた。たとえば、日本で芋というと、里で栽培される里芋、山で採れる山芋であったが、17世紀の初めころからじゃが芋やさつま芋が栽培されるようになった。
 さつま芋といえば、享保の凶荒で飢えに苦しむ民衆の救荒作物として甘薯の栽培を奨励をした青木昆陽が思い浮かぶであろう。しかし、南山城の地にさつま芋(琉球芋)の栽培法を教えて普及させた人は嶋利兵衛であり、青木昆陽より十数年も先んじていたという。嶋利兵衛は、宝永・正徳年間(1706年〜16年)に長池(現、城陽市)で薬種問屋を営み、観音堂村の農民にも苗を貸して薬草を作らせていたが、その中に、幕府禁制の外国の薬草があって、罪を問われて琉球鬼界ケ島への流刑に処せられた。この島にはすでにさつま芋が栽培されており、利兵衛は享保元年(1716年)に赦免されて帰国する際に、髪の毛の中に芋の苗を隠し入れて持ち帰り、さつま芋の栽培普及に努めたので、近隣一帯にさつま芋が伝わったという。これが、城陽市の名産の寺田芋(荒州芋)の起源だという。
 ところが、近時、上津屋石田神社で利兵衛の孫が書いた「琉球芋根元助力願口上書」が発見され、それには、利兵衛が流されたのは壱岐で、宝暦3年(1746年)に赦免・帰国となったとある。これが正しいとすれば、青木昆陽による甘薯普及のほうが早かったことになる。長池や寺田で琉球芋が植えられるようになったが、栽培法がわからず、利兵衛が種芋を持ち帰って栽培法を教えたということになるのであろうか。幕末のころには寺田芋の評判は高くなり、京都町奉行所の与力らが寺田村にさつま芋を注文した文書が残されている。
 城陽市長池の大連寺には、つるや葉を伴った3本のさつま芋をかたどった嶋利兵衛の墓があり、裏面に「琉球芋宗匠嶋利兵衛」と刻まれている。利兵衛は地元の人に敬慕され、現在も子孫がこの地に住んでいるそうだ。
 利兵衛が、さつま芋の栽培法を秘匿しなかったのは、飢餓に苦しむ人々を救済しようと考えたからであろうか、または、栽培法の秘匿が困難であったからであろうか、あるいは、近世には栽培法の秘匿・独占という考え方がなかったからであろうか。伝承によれば、寺田芋だけでなく、仙吉が伝えたという鹿背山(木津町)の赤柿(富有柿)や湯屋谷(宇治田原町)の永谷宗円が伝えたという煎茶は、その苗木や栽培法、製法が秘密にされることなく、広く地域の人々に無償で伝えられている。新しい製法や技術に対する近世の人々の感覚は、資本主義が発達した現代人の感覚とは相当異なっているのかもしれない。
2006年1月

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