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弁護士の “やましろ”探訪 〜古から現代へ〜

恋志谷姫

杉山 潔志
国道163号線から見た恋路橋 ▲国道163号線から見た恋路橋

 京都府相楽郡南山城村は、京都府で唯一の村です。豊かな自然の中を南から流れてきた名張川が木津川と合流し、西へと流れています。木津川に沿って国道163号線とJR関西本線が走っています。関西本線の大河原駅の南の木津川に「恋路橋」が架けられています。「恋路橋}は、増水の際に水没する石製の沈下橋(潜没橋)で、この橋を渡って坂道を上がると石鳥居があり、石段を上がった右に「天満宮」、左に「恋志谷神社」が鎮座しています。
 「恋志谷神社」の祭神は、建武の中興で有名な第96代後醍醐天皇の寵妃であったという恋志谷姫です。神社には恋志谷姫にまつわる悲恋伝説が伝わっています。恋志谷姫は病に罹り、伊勢で療養して笠置行在所に向かい古森まで戻ったところ、後醍醐天皇が笠置山の合戦で敗れて行方不明となっており、会うことができませんでした。恋志谷姫は、悲しみのため病が重くなり、この地で自害しました。後世の人が、姫を哀れんで「恋志谷神社」を建立して祀ったといわれています。
 このような伝説が史実を伝えたものかは不明ですが、難病・厄難を除く神として信仰を集めていました。しかし、現在では、恋愛成就の神として慕われるようになっています。なお、「恋路橋」を歩いて渡り、「恋志谷神社」にお参りすると、いっそう霊験があらたかであるそうです。
国道163号線から見た恋路橋 ▲国道163号線から見た恋路橋
 ところで、後醍醐天皇の后妃としては、中宮藤原禧子、中宮珣子内親王、宮人遊義門院の一条局(藤原実俊女)、宮人阿野廉子(阿野公廉女)、宮人源師親女、宮人藤原為子(二条為世女)が知られています。恋志谷姫が、これら后妃のうちの1人であるか、別人であるのかということは分かりません。後醍醐天皇のように歴代の天皇は、多数の后妃を有していました。婚姻を通じての天皇家の勢力の確保・拡大や天皇家の血統を絶やさないことも婚姻の目的とされたのです。
恋志谷神社と天満宮の社 ▲恋志谷神社と天満宮の社
 このような一夫多妻の婚姻のあり方は、明治天皇まで続けられました。明治天皇と皇后の昭憲皇太后(一条美子)との間には子がなく、5人の側室との間に5男10女の子が生まれましたが、10人は死産・夭折し、成人した男子は典侍柳原愛子との間に生まれた明宮(はるのみや)だけで、明宮が皇位を承継して大正天皇となりました。
 旧皇室典範の審議の際に、皇庶子孫への皇位の承継を明文化するかが問題となりました。明治天皇や大正天皇だけでなく、第115代桜町天皇以降大正天皇まで9代の天皇は庶子天皇だったのです。旧皇室典範には、祖宗の皇統にして男系の男子が承継すると規定されましたが、側室制度について明文化は避けられました。現行の皇室典範にも、この流れをくみ、側室に関する規定はありません。
 大正天皇は、側室を持たない最初の天皇で、それ以降の皇室でも一夫一妻制が続けられています。しかし、一夫一妻制の場合、養子を認めず、男子だけを皇位承継者とすると、承継者が少なくなます。秋篠宮文仁親王と紀子妃との間に悠仁親王が生まれるまで、皇位承継者問題、女皇是非論がマスコミをにぎわしました。
恋志谷神社境内 ▲恋志谷神社境内
 明治時代に成立した旧民法(明治23年法律第98号)は、家制度(人事編第13章など)や一夫一妻制を採用しました(人事編第31条)が、審議の過程では妾を認めるか否かが議論になりました。皇室の側室制度が議論に影響を与えたのです。皇室の側室制度は、妾を持っている男たちが妻に対し「皇后様さえ辛抱しているのだから」と言う口実になったとのことです(牧原憲夫「民権と憲法」(岩波新書)p187)。
 現代に生きているほとんどの人は、一夫一妻制の婚姻形態を当然のことと考えていると思います。日本国憲法第24条は、「(1)婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。(2)配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」と規定していますが、憲法には一夫一妻制の規定はありません。民法第732条に重婚の禁止規定があり、これによって、一夫一妻制が法的に制度化されているのです。
  • 天満宮石鳥居 ▲天満宮石鳥居
  • 天満宮石鳥居案内板 ▲天満宮石鳥居案内板
  • 恋志谷神社と鳥居・石段 ▲恋志谷神社と鳥居・石段
2008年1月

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