弁護士の “やましろ”探訪 〜古から現代へ〜
偽造遺宣で誕生した?平安朝
杉山 潔志
▲藤原百川公の墓・西側鳥居
〔闇に葬られた森友学園公文書改ざん問題〕
更地価格9億5600万円と評価されていた大阪府豊中市の国有地が地下埋蔵物撤去費用を差し引き1億3400万円で小学校(名誉校長:当時の安倍首相の妻・安倍昭恵)用地として売却された森友学園問題。財務省が森友学園に虚偽説明の要請、決裁文書の改ざんをした事実も判明しましたが、真相は闇の中です。
2018年3月には、改ざんを指示された近畿財務局職員赤木俊夫氏が自死し、妻雅子氏が、真相究明を求めて国に対して約1億700万円の損害賠償請求訴訟を提起しました。当初、争う姿勢を見せていた国は、2021年12月、一転して請求を認諾して訴訟を終結させ、幕引きを図りました。また、佐川宣寿元理財局長を被告とした訴訟は、証人尋問も行われず、2022年11月25日、雅子氏敗訴判決が言い渡されました。
更地価格9億5600万円と評価されていた大阪府豊中市の国有地が地下埋蔵物撤去費用を差し引き1億3400万円で小学校(名誉校長:当時の安倍首相の妻・安倍昭恵)用地として売却された森友学園問題。財務省が森友学園に虚偽説明の要請、決裁文書の改ざんをした事実も判明しましたが、真相は闇の中です。
2018年3月には、改ざんを指示された近畿財務局職員赤木俊夫氏が自死し、妻雅子氏が、真相究明を求めて国に対して約1億700万円の損害賠償請求訴訟を提起しました。当初、争う姿勢を見せていた国は、2021年12月、一転して請求を認諾して訴訟を終結させ、幕引きを図りました。また、佐川宣寿元理財局長を被告とした訴訟は、証人尋問も行われず、2022年11月25日、雅子氏敗訴判決が言い渡されました。
▲藤原百川公の墓・墓碑
〔古代から犯罪であった文書の偽造、虚偽文書の作成〕
刑法は、文書に対する社会的信用を保護するため、文書の偽造・変造、虚偽文書の作成や行使を犯罪として処罰の対象としていますが、決裁文書の改ざん事件だけでなく統計不正事件も起きています。
古代日本でも詐偽律に詔書などに関する処罰規定がありました。「続日本紀」天平宝字3年(759年)7月庚辰(16日)条には、詔勅を偽造して庶民をあざむき惑わせた中臣梶取を出羽国柵戸に配流したとの記述があります。
刑法は、文書に対する社会的信用を保護するため、文書の偽造・変造、虚偽文書の作成や行使を犯罪として処罰の対象としていますが、決裁文書の改ざん事件だけでなく統計不正事件も起きています。
古代日本でも詐偽律に詔書などに関する処罰規定がありました。「続日本紀」天平宝字3年(759年)7月庚辰(16日)条には、詔勅を偽造して庶民をあざむき惑わせた中臣梶取を出羽国柵戸に配流したとの記述があります。
〔称徳天皇の遺宣〕
淳仁天皇を廃して重祚した生涯独身だった称徳天皇は、神護景雲4年(770年)8月、皇太子を定めないまま崩御しました。崩御後、左大臣・藤原永手(北家)、右大臣吉備真備、参議・兵部卿藤原宿奈麻呂(式家)ら6人が禁中で策を練り、その際、永手が「白壁王は年齢も高く、先帝(天智天皇)の功績もあるので皇太子に定めるとの諸臣の合議を奏上すると、称徳天皇が奏上のとおりに定めると仰せになった」(通説的理解)との称徳天皇の遺宣(遺言の宣命)を伝え、白壁王が立太子されました(「続日本紀」宝亀元年(770年)八月癸巳(4日)の条)。
淳仁天皇を廃して重祚した生涯独身だった称徳天皇は、神護景雲4年(770年)8月、皇太子を定めないまま崩御しました。崩御後、左大臣・藤原永手(北家)、右大臣吉備真備、参議・兵部卿藤原宿奈麻呂(式家)ら6人が禁中で策を練り、その際、永手が「白壁王は年齢も高く、先帝(天智天皇)の功績もあるので皇太子に定めるとの諸臣の合議を奏上すると、称徳天皇が奏上のとおりに定めると仰せになった」(通説的理解)との称徳天皇の遺宣(遺言の宣命)を伝え、白壁王が立太子されました(「続日本紀」宝亀元年(770年)八月癸巳(4日)の条)。
▲藤原百川公の墓・墓碑背後
〔偽造の可能性がある称徳天皇の遺宣〕
策定会議では、永手、宿奈麻呂らが天智天皇の孫・白壁王を擁立し、真備が天武天皇の孫・文室浄三(ふんやのきよみ)(智努王)、弟文室太市(ふんやのおおち)(太市王)を主張しました。「日本紀略」が引用する「藤原百川伝」には、百川(式家)が遺宣を偽作し、これが効を奏したとの記述があります。
「百川伝」は編者、成立年が不明であり、記述内容の真偽は定かではありません。桓武立太子の事情が誤って伝えられたとの説もありますが、淳和朝期に息子・緒嗣が父を顕彰するために編集した(林陸朗國學院大學名誉教授)、桓武天皇による削除の前の原「続日本紀」には遺宣の偽作が記述されていた(吉川敏子奈良大学教授)などの指摘や「百川伝」の他の記述内容が事実と確認できることから百川による遺宣の偽作を肯定する見解(甲子園短期大学木本好信特任教授)もあります(木本好信「藤原永手について(2)」甲子園短期大学紀要31参照)。
策定会議では、永手、宿奈麻呂らが天智天皇の孫・白壁王を擁立し、真備が天武天皇の孫・文室浄三(ふんやのきよみ)(智努王)、弟文室太市(ふんやのおおち)(太市王)を主張しました。「日本紀略」が引用する「藤原百川伝」には、百川(式家)が遺宣を偽作し、これが効を奏したとの記述があります。
「百川伝」は編者、成立年が不明であり、記述内容の真偽は定かではありません。桓武立太子の事情が誤って伝えられたとの説もありますが、淳和朝期に息子・緒嗣が父を顕彰するために編集した(林陸朗國學院大學名誉教授)、桓武天皇による削除の前の原「続日本紀」には遺宣の偽作が記述されていた(吉川敏子奈良大学教授)などの指摘や「百川伝」の他の記述内容が事実と確認できることから百川による遺宣の偽作を肯定する見解(甲子園短期大学木本好信特任教授)もあります(木本好信「藤原永手について(2)」甲子園短期大学紀要31参照)。
▲藤原百川公の墓・説明板
〔桓武天皇の即位の経緯〕
白壁王(光仁天皇)は、62歳で即位し、妃・井上(いのえ)内親王(天武系聖武天皇の皇女)が皇后に、両名間の他戸(おさべ)親王が皇太子になりました。しかし、宝亀3年(772年)3月、井上内親王は、難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛したとして廃后され、他戸親王も廃太子されました(講談社学術文庫・続日本紀(下))。井上内親王は、さらに難波内親王を呪詛・殺害した嫌疑で他戸親王とともに庶人に落とされ、幽閉先で死亡しました。そして、百済系渡来人出身で宮人(側室)の高野新笠(たかののにいがさ)との間に生まれた山部(やまべ)親王が皇太子となり、光仁天皇が天応元年(781年)4月に譲位し、山部親王(桓武天皇)が即位しました。
白壁王(光仁天皇)は、62歳で即位し、妃・井上(いのえ)内親王(天武系聖武天皇の皇女)が皇后に、両名間の他戸(おさべ)親王が皇太子になりました。しかし、宝亀3年(772年)3月、井上内親王は、難波内親王(光仁天皇の同母姉)を呪詛したとして廃后され、他戸親王も廃太子されました(講談社学術文庫・続日本紀(下))。井上内親王は、さらに難波内親王を呪詛・殺害した嫌疑で他戸親王とともに庶人に落とされ、幽閉先で死亡しました。そして、百済系渡来人出身で宮人(側室)の高野新笠(たかののにいがさ)との間に生まれた山部(やまべ)親王が皇太子となり、光仁天皇が天応元年(781年)4月に譲位し、山部親王(桓武天皇)が即位しました。
〔桓武天皇の即位と平安朝の成立〕
桓武天皇の実現の背後には、百川ら藤原式家の思惑があったとの指摘があります。擁立の功績にあった式家の貴族は重用され、良継の娘・乙牟漏(おとむろ)は桓武天皇の皇后になり、百川の娘・旅子(たびこ)も後宮に入り、種継は長岡京造宮使に任じられ、平安朝が準備されていきました。
現代に行われた文書改ざんや事実の隠蔽に照らすと、古代でも権力者が行っていたとの疑念を否定できません。桓武天皇の即位に向けた動向に照らすと、称徳天皇の遺宣の偽造や偽造事実の隠蔽説が説得的と思えてしまいます。
桓武天皇の実現の背後には、百川ら藤原式家の思惑があったとの指摘があります。擁立の功績にあった式家の貴族は重用され、良継の娘・乙牟漏(おとむろ)は桓武天皇の皇后になり、百川の娘・旅子(たびこ)も後宮に入り、種継は長岡京造宮使に任じられ、平安朝が準備されていきました。
現代に行われた文書改ざんや事実の隠蔽に照らすと、古代でも権力者が行っていたとの疑念を否定できません。桓武天皇の即位に向けた動向に照らすと、称徳天皇の遺宣の偽造や偽造事実の隠蔽説が説得的と思えてしまいます。
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- ▲藤原百川公の墓・東側階段
- ▲藤原百川公の墓・説明板(拡大)
2022年12月